くところがあった。それまでの一年間ばかりはすべてが不安定で、ひろ子は、自分だけが、例えば文学報国会を脱退することで、一層くっきりと目立って孤立することがこわかった。防空壕にたった一人で入っているより多勢といたいこころもちがあった。文学の分野でも、情報局の形をとった軍部の兇悪な襲撃を、たった一人で、我ここに在りという風に、受けとめる豪気がひろ子にはなかった。みんなのいるところに出来るだけ自分も近くいたいという人恋しさがあった。けれども、重吉が、笑止千万という表情でひろ子を見るとおり、ひろ子のそんなこころもちは、書くものを御用に立てない以上、役人にとっても笑止千万なことであったろう。その頃文学報国会の役人は、もう文学者ではなくて、役人どころか情報局の軍人が入って来ていた。
「あのころ、ひろ子が、つべこべ云うのが、不思議でたまらなかった。実にはっきりしているんだもの。どうして、自分の亭主の頸に繩をかけているものを一緒んなってひっぱるようなことをするんだろうかと思った」
「私もそう思うわ。だから、あなたは、よくああいう風におだやかに云っていらっしゃれたとびっくりするの」
 面会のとき、文学報国会を脱退するしないの話が出た時、重吉は、おだやかにそのことを云い、ただ、おどろくばかりの根気づよさで、それをくりかえした。きょうも。あしたも。又その次に会ったときも。ひろ子が、遂に云いわけや口実をこねくりまわす余地がなくなる迄くりかえした。
「わたしが、本当にすっきりしたのは、あなたの公判をずうっと一緒にやって行って、それが終ったときだっと思います。――手紙にも書いたわねえ」
「うん」
「前から、いつも云っていたでしょう? 自分という船の自分のコースがしっかり出来たら、どんなにいい気持でしょうって。岸沿いに、岸の灯にひきよせられたり、そうかと思うと濤《なみ》に押しのけられたりしていないで、水の深い沖を自分のコースに従って堂々進行する船になりたいって。――あなたの公判がすんで、江波土に行ったことがあったでしょう。あのとき、はっきりわかったのよ、自分がいつの間にかもう沖へ出たことが。自分のコースというものはもう辿られていたことが分ったの。……だから、わかるでしょう? 私がどんなにあなたの力漕《りきそう》をありがたく思ったか」
 ひろ子の妹が、疎開して、夷隅川のそばの障子も畳もない小屋に菰垂
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