来ましょうか」
建物の中へその人が入って行った。そして髯を生やした小柄な男と一緒に現れた。その髯をつけたひとは、ちょっと片手を腰に当てる恰好で、
「徳田さんは今地方から来た人と会議中ですから、それがすんだらすぐはじめます。すみませんがもう少し待って下さい」
もう一遍、
「会議がすめば、つづいてすぐやりますから」
とくりかえした。よく響く声のたちで、眼や額の皮膚は清げなそのひとが、どういうわけか小柄な体にすこしあかっぽい大髯をつけて、年のわからないような威風あたりを払っている様子にはユーモアがあった。拘置所では世間並に髪を生やしておくのにさえ蓄髪願という書類を出さなければならなかった。こんな大きい髯をもっているために、この同志はどんな書類を書き、人間は自分の髯については、それをのばしても刈っても自由な権利をもっているのだということについて、がんばって来たのだろう。人権に関する最初の戦利品というようなその髯をみて、ひろ子は微笑をおさえることが出来なかった。
髯の同志がきょうの世話役らしく、暫くすると階段の下から、
「みんな、集って下さい」
また響きのいい声で呼んだ。牧子と子供とが、どうしようかしら、という風にひろ子のわきに立って躊躇しているのに目をとめた。
「あなたも来て下さい。遠慮なんかいりゃしない」
一同は二階の一室の三方へ詰って坐った。建物のはずれの室で二方に大きい窓が開いた床の間つきの六畳であった。二三人の男のひとたちが、床の間のかまちに腰かけて、三尺の入口のふみこみのところだけ、すこしすきがのこされた。
「あ、ようござんす。それはまたそれで、あとからやりますから……」
ござんす、というところがいく分鼻にかかる訛《なま》りを響かせながら、坐っているみんなに挨拶するようにして徳田球一が入って来た。一方の窓を背にして置かれていた小机の前に坐った。
「どうも今日はお忙しいところをすみませんでした」
女のひとたちは、そろって行儀よくお辞儀をした。又そろって頭をあげて、黙ったまま眼にちからを入れた表情で、カーキ色の国防服めいたものを着ている、はげ上った、精悍《せいかん》な風貌を見つめた。
「わたしは、外国へやられたり、牢屋へ入ったりばかりしていて、これまでに結婚生活をしたのは、たった七ヵ月ぐらいのもんでした。だから、御婦人の生活をよく知っているとは云えないか
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