「それは、その方がいいわ」
「紹介しておくれ」
玄関わきの客室に、知人一家は暮している。ひろ子は、そこへ行って、
「昨晩はありがとうございました」
と云った。
「あんなにしてわざわざ来て頂いたりしたときには来なくて、わたしが待ちくたびれて腰ぬけになったら、かえって。――石田です」
うしろに立っていた重吉を紹介した。重吉は、まだ帰って来た時のままのなりで、嵩《かさ》だかにそこの畳へ手をついて挨拶をした。
「石田です。――どうも永い留守の間はいろいろお世話様になりました」
それは決して、ただ時間の上で永い留守をしていたという挨拶ではなかった。二度と還ることはなかったかもしれなかった者、生活の外におかれていたものが、今帰った、良人として妻のところへ、社会生活のごたごたの中へ戻って来た、その挨拶であった。戦争の中から、妻のところへ生きてかえることの出来た男たちも、何人か、こういう挨拶のしかたをしたことだろう。わきに膝をついて重吉の挨拶を見ていたひろ子は、のどにせきあげて来て、やっときこえるような声で、
「じゃ、また、のちほど、ね」
重吉を立たせた。二つの手を独房の畳の上へは決してつかなかった重吉。そのために、例外のようにひどい判決をうけた重吉。その重吉が、急に世間並のしきたりの中に戻って来て、それをこんなに素直にうけとり、世話になるより、世話になられているという関係の知人にまで真心をもって、不器用に挨拶している。人の一生のうちにざらにある瞬間として感じてすぎることはひろ子にとっては不可能であった。
今、吉岡が、じゃあ拝見しましょうか、と云ったとき、重吉はいきなり背広の上着をぬいでしまった。それも、重吉がただ熱心に診て貰おうと思っていたからのこと。それだけに重吉のいくらかとんちんかんなその動作のこころを解釈するこころもちがしなかった。
吉岡純介は、重吉というよりは寧ろひろ子の親友の一人であった。結核専門で、そのためにひろ子は何度も重吉の体について相談して来た。一九四二年の夏、東京は六十八年ぶりとかの酷暑であった。前年の十二月九日、真珠湾攻撃の翌朝、そういう戦争に協力することを欲していない者と見られていた数百人の人々の一人として、ひろ子も捕えられ、珍しい暑い夏を、巣鴨の拘置所で暮した。皮膚の弱いひろ子は、全く通風のない、びっしょり汗にぬれた肌も浴衣もかわくというこ
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