「文学評論」は十八世紀のイギリス文学を、当時のイギリスの状況、特にロンドン風俗を背景として観察した点、そして、それを漱石独特の判断で評価しているところに深い価値をもっているのであるが、今日の歴史に立ってこの卓抜な業績を見て感興を覚えることは、漱石が実に容赦なく十八世紀ロンドン人士の俗っぽさ、軽薄さ「詩的に下等」であることを摘発しつつ、では何故そんなに俗っぽくて常識万能の鼻もちならなさが当時の社会に瀰漫《びまん》したかという原因については、深く追究していない点である。同時に、一日本人としての漱石自身が十八世紀のイギリスを俗っぽいと感じ、下等だ、と感じるその感じかたについて、どこまで過去の儒教的な教育ののこりが自身の心持の底に作用しているか、所謂《いわゆる》文人的教養の趣味が評価に際してつよく影響しているかということなどについては、一向省察がめぐらされていないところも、当時の文芸批評として識見の高さを示しているとともにその主観的な限界を語っていて面白い。
その文芸評論の中で漱石は、ディフォーの「ロビンソン・クルーソー」を批評している。「詩的に下等であるから、美的要素にとんだ作品が滅多に少
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