と光り、チャラチャラとなり、陽気で賑やかで、その上強い権力を持っている者の方が、どんなに魅力があるかとは考えないのである。
 イレンカトムは、泥棒だの人殺しの巣のような処に思える東京へ息子を遣るくらいなら、もっと早いうちに自分が死んででもいた方が、どんなに仕合わせであった[#「た」に傍点]ろうとさえ思う。
 彼は夜もおちおちとは眠らずに、家の守神を始め天地の神々に祷《いの》りを捧げ、新らしいイナオ(木幣)を捧げて、息子の霊に乗り移った悪魔があったら、追い出して下さることを願ったのである。

        五

 けれども、豊はとうとうイレンカトムを負かし、或は悪戯者の悪魔が祷りに勝って、彼は総ての点において成功してしまった。
 地所も売り、その代金全部を自分の懐に入れ、それを鳴らしながら、彼の理想通りの出立をしたのである。
 イレンカトムは、涙をこぼしながら、息子が行ける処まで行って見ようと云って出掛けた報知を受取ると、直ぐ、昔から親切に家畜や地所のことで世話をしてもらっている山本さんという家へ出かけた。
 そして、S山の方へ引込みたいから、どうぞそのように取計って下さいと云った。
 S山と云うのは、ずうっと海岸に近い処で、彼はそこにも土地を持っていたのである。
 山本さんの息子や、宿っている学校の先生等は、ただでさえ淋しいのにあんな処へ独りぼっちで引籠っては良くないと云って止めるにも拘らず、イレンカトムは、是非そうして下さいと云って聞かない。
 そこで終に、今までの家は貸家にして、S山に新らしい小屋を建てることになったのである。
 すっかり昔のアイヌ振りで拵えた小屋の、北と東は雑木の山続きで、東側は十六七丁先きの方で、美くしく海に突き出たY岬になり、西には人家へ降る小山やまた、他の遠い山々の裾に連っていた。
 そして、南側には彼の飲料水を供給する澄んだ小流れが、ササササ、ササササと走っている。その他には何もない。この寂寞《せきばく》のうちに、四方を茅で囲った新らしい小屋が、いかにも可愛い巣のように、イレンカトムと、二代目の黒とを迎え入れたのである。
 彼は、思い付く毎に小屋の戸口に立っては、足跡で踏み堅めた小道の方を眺める。また或るときは、彼方の小山に昇って、遠く下を通っている往還を眺める。
 沢山の荷馬が通ることもある。
 勢のいい自転車が、キラキラと車輪を光らせながら小燕のように走《か》けるときもある。
 または、四五年前に豊がしたように、鞭を廻し廻し馬車を追って行く子供もある。
 人が通り、車が通り、犬が馳ける……。けれども彼の待っている物は見えない。
 実《まった》く、イレンカトムは、昼でも夜中でも、西側の小山の路へ、ヒョイとせり出しのように現われて来る唯一の、若い、美くしい頭を待ちに待っていたのである。
「飛んで来い」はいつも、きっと元の場所まで戻って来るときまっているだろうか?
 けれども、イレンカトムは待っていた。そして、出た者は必ず戻って来ることを信じている。いつ戻って来るか? それは解らない。それだから、彼は絶えず、待[#「待」に傍点]ち、望[#「望」に傍点]んでいたのである。
 T港で、豊の姿を見掛けたという噂だけを聞いて、イレンカトムの小屋は、雪に降り埋められる時候となった。
 平常でさえ余り楽でない路を、雪に閉されてはどうすることも出来ない。
 全く人間界から隔離されてしまった彼は、二十日に一度、一月に一度と、味噌や塩の買出しに降りるときだけ、僅かに人間の声を聞いて来るのである。
 その一冬は、彼にとって、どんなに淋しいものであったろう。
 ほんとうの独りぽっちで、気の紛れがないから、考えは始終同じ問題にこびり付いていなければならない。
 考えれば、考えるほど、心はさか落しに滅入って来て、どうにもこうにもならなくなる。そこで、仕方がないから、ちょっとばかりの酒でも飲んで炉辺でごろ寝をするような癖の付いたイレンカトムは、従って人の眠る夜になると、否でも応でも眼を覚していなければならなく成ってしまった。
 窓の隙間から蒼白くホーッと差し込む雪明りに照らされる陰気な小屋のうちで、彼は死んだような厳めしい静寂と、次第に募って来る身の置処のない苦しさに圧迫され、強迫されて、頭はだんだんと理由の解らない興奮状態に陥って来る。
 小屋の中じゅう、どこへ行っても、何ものかが満ち蔓《はびこ》っていて、自分を拒絶したり、抵抗したりするような心持のするイレンカトムは、じっと一つ処に落付いてはいられない。
 知らず知らず、ブツブツと口小言を云いながら、あちらこちらと歩き廻る。
 そして歩き廻りながら、眠りもしないで、こんなことをしている自分は普通でないなと思って来る。
 一体どうしてこうなのだろう?
 彼は、炉の火を掻き起して、明るくしたり、パタパタと何かを払うように耳を叩いて見たりする。けれども、益々、心持は落付かない。どうもおかしい。このとき、彼の心には、明かに、「夜」に対する伝説的恐怖が目覚めて来るのである。
 怪鳥が人間の魂を狙って飛び廻るとき、死人が蘇返って動き出すとき、悪霊、死霊が跳梁するとき、それが、彼の子供のときから頭に滲《し》み込んでいる夜の観念である。
 暗い夜に外を歩くと、化物に出会って、逃げる間もなく殺されるぞと云われ云われした彼は、今もなお、囲い一重外の夜、闇に対して、深い恐怖と神秘とを抱いている。
 その遺伝的な恐怖が湧き上ると、彼は居堪れないように成って、神々に祷りをあげる。
 一生懸命に謡を歌う。犬にふざける。そして、暁の薄明りが差し始めると、ようよう疲れ切った眠りに入るのである。
 斯様に、S山で余り寂しすぎる一冬を送った彼は、すっかり頭を悪くした。体も悪くなった。けれども、イレンカトムは、自分の転居が失敗だったとは思わない。彼は一言も洩さなかったけれども、自分が若し万一病気にでも成れば、部落ではすぐ近所の者が知っていろいろな物を盗もうとするかもしれない。がここにいれば、人に知らせず、山本さんだけに万事委せることが出来るから、よほど安心だ、と思っていたのである。
 唯一人の彼が臥たら、誰が山本さんまでの使をするだろう? けれども、彼はそこまでは考えたことがなかった。
 追々、雪が薄くなって、木の芽が膨《ふくら》むような時候になると、彼は、小屋の東側に僅かの地面を耕してそこに、馬鈴薯と豌豆《えんどう》を蒔いた。
 誰かは訪ねて来る人も出来、気を変える仕事も出来て来て、イレンカトムは草木とともにようよう生気が出たように見えたのである。

        六

 ところが、その春はたださえ霧っぽい附近の海から、例年にないほどの濃霧《ガス》が、毎日毎日流れ始めた。
 ずうっと沖合いから押し寄せて来るガスは、海岸へ来ると二手に分れる。
 一方は、そのままY岬へ登って馳け、他の一方はずうっと迂回《うかい》して、Y岬とは向い合ったL崎の端《はな》から動き出す。
 そして、その二流はちょうどS山の上で落ち合って、ずうっと奥へ流れ去る。これは、平地を抱えて海まで延びている山の地勢の、当然な結果ではあるのだけれども、その潮路に当るところは堪らない。
 下の部落にそんなにひどくないときでも、山々を流れて行く霧は、灰色に濃くかたまって音のしそうな勢に見える。
 それ故、切角春になると直ぐイレンカトムの小屋は、日の目も見えないほど、霧に攻められなければならなかった。
 今日も霧、明日も霧。
 潮気を含んで、重く湿っぽいガスは、特有のにおいを満たしながら、茅葺き小屋のらんまで透して、湿らせる。
 ちょうど、梅雨期のような不愉快さ、不健康さを弱り目に受けて、イレンカトムは、始終頭痛がしていた。寝ても覚めても、耳の中で、虫が巣くいでもしたような、ジージー、ブーンブンと云う音がする。
 体中から、精、根が抜け切ってしまったように思う彼は、過敏になって、自分の飼犬の姿にさえザワザワとすることがある。
 ときどき、ひどい癇癪を起して、訳なしにあんなにも大切にする黒を蹴ったりするようなこともある。山本さんの家の者は、年寄《エカシ》はこの頃少し痩せたようだね、と云うくらいのことで、別に注意もしないし、彼自身は勿論自分の神経に就て考えるような男ではない。そうしてそのまま日が経って行った。
 或る夕方。久し振りで晴れ渡った空が見えるように天気の好い暮方である。
 畑で、草|毟《むし》りをしていたイレンカトムは、何だか、妙に頭がグラグラするような心持なので、炉辺に引込んで、煙草を烟《の》んでいた。
 すると、戸口の傍で人声がする。何か小さい声で相談でもするように、ボソボソと云っている。
 まだ若そうな女の声が、一言二言何か云うと、元気のあるのをようよう小声にしているような若い男の声が、それに答える。声の響きで見ると、アイヌ語を使っている。
 何を喋っていることやら……
 イレンカトムは、今に入口の垂れを持ちあげて訪ねて来る二人の若い者を待っていた。
 待って待って、待ちくたびれるほど、待っても入って来ない。
 そこで彼は自分から立ち上って、迎に出た。たぶん極りを悪がってでもいるのだろうと思ったのである。
 出て見ると、小屋の隅に、頭を垂れた若い女が案の定立っていて、少しはなれたところに腕組みの男がいる。
 誰だか知らないが、来た者はお入り、と云うアイヌ振りの挨拶をして、中に入って待つ。未だ来ない。入りもしないで、相変らず喋っている。喋ること、喋ること、声の高さは変らないが、素敵な早口で、男が喋る。女が喋る。そして、終いには、両方がごっちゃになって何か云う。
 余り人を馬鹿にしていると思ったイレンカトムが、少し腹を立てて、
「お入りと云ったら、どうして入らないのか?」
と、アイヌ語で云いながら、もう一遍戸口に出て見ると……これはどうしたことだ、今の今まで声のした二人は、もうどこへか隠れて、後影も見えはしない。
 はて! これはどういうことだ?
 彼も少なからず不審に思った。
 いろいろ考えて見ても、どうしても、若い男と女とを見たのは確かである。女が紫色の小帯をしめて、重ねた上の方のどの指かに、白い指環のあったのさえ見たのだから……
 その日は、それなり、妙なこともあるものだですんでしまった。
 ところが、それはその日だけでは済なかった。翌日もその翌日も、彼は声を聞く。或るときは四五人の者が来たようであり、或るときは十人以上が群れているように聞えるときもある。
 アイヌ語や日本語で、だんだんはっきりと意味の聞きとれる言葉を喋る。
 それも、決して、行儀よく話すのではない。どこかずうっとY岬の先の方から、風と一緒に喋りながら、やって来る。そして、小屋の周囲を馳け廻ったり、小屋の中を跳び廻ったりしながら、イレンカトムの「胆の焼ける」ようなことを、罵ったり、揶揄《からか》ったり、茶化したりするのである。
 魚を焼いていると、魚が食べたいとねだる。米を煮ると、それを呉れと云う。
 そして、始めには、夕方だけ来たものが、追々朝から付きまとって、夜眠ろうとでもすると、寝させまいとして、途方もないいたずらをする。喉を〆《しめ》に掛ったり、息もつけないように口を閉《ふさ》いだりして、叱りつければちょっと遠のいて、また始める。
 そんなにされながらも、イレンカトムは、ただ声と、気合《けは》いだけを相手にして、怒ったり、怒鳴ったりするだけなのである。
 理窟を云って追い払おうとすれば、なかなか負けずにやり返す。
 こうなっては、彼もどうかしないではいられない。一生懸命になって、聞いただけの昔話の中から、声ばかりの化物に就ていってあるのを漁り始めたのである。
 考えて考えた末、彼はとうとう、子供の時分父親から聞かされた、コロポックルという小人の話を思い出した。

        七

 イレンカトムが、父親から聞いた話と思い合わせて見ると、自分に掛るものは、どうしてもコロポックルという、小人らしい。
 何故なら、その小人はいろいろな術を知ってい
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