同様な、或るときにおいてはより以上の価値を有っていたものである。そして、今もなお、他の由緒ある家系のアイヌがそうである通り、彼もそういう物に偉大な尊敬を払って、それを失い穢すことを畏れているのである。
完く、イレンカトムは、譲るべき財物と共に、豊の帰る日まで、彼の手に渡る日までさえ確に生きていれば好かったのである。
けれども、追々には、コロポックルまでが、宝物を強請するように成って来たとき、イレンカトムの心は、どんなに乱されたことであろう。
コロポックルは、赤い膳を呉れろの、彫りのある鞘を寄来《よこ》せのと云う。そして遣られないと叱り付ければ、いろいろな罵詈雑言《ばりぞうごん》を吐いて、彼を辱しめる。
吝嗇坊《けちんぼう》だと云って、人は皆嘲笑っているぞと云ったり、自分独りで沢山の宝物《イコロ》を隠しているから、見ろ、部落中の者がお前を憎んでいるのを知らないか、と云ったりする。
豊が来るまで。
どうぞ、豊に手渡ししてしまうまで!
宝物を奪われないため、人に詐されないため、執念深いコロポックルに負けたくなかった。
どうぞ、ほんとにどうぞあの豊坊の帰って来る日まで!
ただ、それだけである。ただそれだけのために、イレンカトムは泣くようにして、山本さんにコロポックルを追払うに好い方法を教えて下さいと願って行ったのである。
山本さんも困った。どうしたら好いか分らない。まして彼に好意を持っている自分が、唯一の頼りある者として願われて見ると、なおさら困る。それだからといって、勿論、放って置くには忍びない。山本さんも考えずにはいられなかった。
イレンカトムは、まるで幾代か伝わって来た伝説の断面のような男であるのは山本さんも知っている。難かしい理窟で、自分の頭を支配する種類の人間ではない。いろいろな人にも聞き、考えもして、とうとう山本さんは、或る坊主が実験して成功したという一つの方法を思い出した。
そこで、イレンカトムを呼ぶと、山本さんは厳格な態度で、一包みの豆を彼の前に置いた。そして、次のようなことを話した。
「この紙包みの中には、豆が入っている。いいかね、豆が入っているんだよ。
ところで、今日お前が家へ帰ってコロポックルが来たら、先ずこれを見せて大きな声で、『これは何だか知ってるか?』と、訊いて見るんだ。そうすると、コロポックルの奴、きっと、『豆だ!』と云うに違いない。いいかね。そうしたら今度は『そんなら幾つ入ってる?』と訊くんだ。忘れちゃあいけないよ。
幾つ入ってるかと、また大きな声で訊いてやるんだね。
そうすると、ホラこの通り紙でちゃんと包んであるから、コロポックルに中の数は分りゃあしない。
だからきっと黙っているだろうさ。そこで、うんと今度も力を入れて、
『数が云えなけりゃあ引込め!』
と怒鳴り付けてやるんだ。いいかね。
そうすれば、きっとコロポックルの奴も降参するにきまっている。数を訊くのを忘れちゃあ駄目だぞ。それから、お前自分でも、決して豆の数を勘定したり、中を見たりしちゃあいけないぞ。いいかね。
大切なお禁厭《まじない》なんだからな。腹へうんと力を入れて、やって遣るんだぞ。きっとコロポックルだって降参するんだからな、よしか!」
これを聞いて、イレンカトムは、どのくらい心強く感じたことだろう。
彼は今までかつてこれほど、自信のあるらしい、禁厭を教わったことはない。また、聞いたこともない。これでこそコロポックルに勝てるぞ!
それだけでも彼は、もう勝ったような心持がする。
コロポックルにさえ勝てば、もう他に何が来ても、この俺を詐すようなことが出来るものか。
イレンカトムは、深い感謝の言葉を述べながら、双手《もろて》を捧げて、篤いアイヌ振りの礼をした。
けれども。長い髭を撫で下した彼の手が、その先を離れるか離れないに、彼の心には、もう一種の恐れが湧き上った。
何にでも、素早いコロポックルが、もう禁厭の豆を知って、どこかそこいらの隅から、今にも飛び掛りそうな心持がする。
ハッと思う間に、引攫われてしまいそうで堪らない。
イレンカトムは、大急ぎで豆の包みを懐へ捻《ね》じ込むと、その上を両手で確かりと押えつけながら、黒を急《せ》き立て、帰途に就いた。
コロポックルを撒くために、故意《わざ》と道のない灌木の茂みを、バリバリとこいで行くイレンカトムの踵に、鼻を擦り付けるよう頭を下げた黒がトボトボと後から蹤《つ》いて行った。
底本:「宮本百合子全集 第一巻」新日本出版社
1979(昭和54)年4月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第一巻」河出書房
1951(昭和26)年6月発行
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年1月2
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