の一つで best と自筆で書いてあるのが、実現されたのであったこともわかりました。
建築家として父の活動がおのずから示した消長には、日露戦争以後における日本の社会経済と文化との波動が実に脈々と反映していることが観察されます。
曾禰先生と御一緒に八重洲町の事務所が開かれたのでしたが、先生と父とではいろいろの点のやりかたが随分違っていたように感じられます。娘としての当時の私の生活にうつった面だけですが、曾禰先生は、事務所へ御家族が見えるということをなさらなかったようです。父は、普通の日でも執務時間が終る頃母や子供を事務所へ立ちよらせ、その時分ハイカラアなところのように思われていた中央亭で家族揃って夕食をたべたりしたことがよくありました。大抵土曜日ででもあったのでしょう。十か十一であった私が母や弟と事務所の通りをずっと来て、石段を三つほどあがり、手前へ引っぱるベルを、力一杯ひっぱると、ベルはいかにもバネのよい音でビーンと鳴ります。やがて黒い上っぱりを着た人が出て来て中からドアをあけてくれる。それが父自身のこともあり、小使のお爺さんのこともあり、ごくたまにはどなたか若い方の時もある。事務
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