所のベルをひっぱる時の心持は全く独特でした。私達がゆく頃、ほかのひとは大方おられず、曾禰先生がおられることがあり、
「ヤア」
と、一寸眼鏡の上から眼差しを越して御挨拶になりました。その御様子は今日もあの時分のままです。小使のお爺さんは、縞の着流しで、紺セルの前かけをかけていました。地下室がある。青写真を水に入れてある。箱がある。それらすべては大変珍らしくて、あたりの様子は威圧的であって、私どもは事務所の中ではおとなしく振舞いました。父が話しかけるときでなければ、子供の方からは決してものを云いませんでした。それにまた、事務所の机に向っているときの父の姿の中には、うちにいるときの父とは違う緊張と威厳がある感じでした。
時々妻や娘たちを事務所によらせて昼飯や夕飯に出ることは晩年までつづきました。こういう父の一面に公私混同をきらう気質がよくあって、仕事のことになると、家族であるなしということの情実に支配されることを極端にさけていたと思われます。長男の国男は建築をやっているのですが、父は建築家として彼を見ることではなかなか点が辛うございました。息子だからと云うので同じ事務所にいても特別に扱うこ
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