る箇処も見られます。
 名古屋の共進会のために参考として一九〇〇年のパリ博覧会か何かのスケッチのほか、記念塔、時計塔、アーチ、パゴーラ、音楽堂等の自分のデッサンもこの帳面の中で少なからず試みられております。そしてこの時の音楽堂草案がサラセン風の加味されたものであることは、私に特別面白く感ぜられます。父は、洋風建築の基本的伝統としては英国風でした。しかしながらその手堅さの一面では南欧風の趣をもこのみ、サラセン式の唐草、華麗な色調がすきで、多分平和博覧会の時でしたか、山の上の建物を扱った時、音楽堂を、サラセン風にデザインしました。父が自分の空想の小さいはけ口としてその音楽堂の素描を私にまで見せたりした、その望みは十何年か前から既に心に潜んでいたものであったのかと、特に当時は父が大してすきでもなかった文部省の小役人であったとしてみれば、一層この実現したかしないか分らないデッサンにしたしみを覚えます。
 この父の手帳は、それから相当の頁がブランクで続きます。
 何程か経ってから小住宅のプランが三つ四つ出て来て、さて、私共にとって実に見落せない数頁が現れます。明治四十一年二月の日附で「曾禰達蔵氏
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