ト共ニ左記ノ処ニ事務所ヲ開始シ公私ノ依頼ニ応ジ専心建築工事ノ設計監督ニ従事仕候間此段御披露申上候。敬具」云々と初めて八重洲町に事務所をこしらえた前後の様子が相当こまかにのこされているのです。四十一歳になった壮年の父の心の中では、この手帳がブランクであった時期、どのような計画と決心との過程が経験されたことでしょう。
 事務所開始のよろこび、用意というようなものが手帳の面に溢れています。新聞へのせるための広告文、発表すべき新聞名、電話加入手続、名刺の草稿、事務所規約の下書、会計上の諸件。この項によって、私たちは子供時代の記憶の中に鮮やかなあの仲通りの赤煉瓦建ての事務所が、「折半出資」僅か千五百円ずつで経営されはじめたことを知り得ます。小切手のこと、支払いのこと、一つ一つが細心に実際的に考えられており、事務所備品として製図用紙五〇、丁定規五つ、から羽箒六つ、時計一つというまことに小規模の新世帯の様がまざまざとうかがわれます。そして、後年事務所が八重洲ビルの三階に移転するまでずっと仲通りの事務所の狭い入口の左手にかかっていた真鍮のサインの図案も、この記念的な帳面の上で、いくつか試みられている中の一つで best と自筆で書いてあるのが、実現されたのであったこともわかりました。
 建築家として父の活動がおのずから示した消長には、日露戦争以後における日本の社会経済と文化との波動が実に脈々と反映していることが観察されます。
 曾禰先生と御一緒に八重洲町の事務所が開かれたのでしたが、先生と父とではいろいろの点のやりかたが随分違っていたように感じられます。娘としての当時の私の生活にうつった面だけですが、曾禰先生は、事務所へ御家族が見えるということをなさらなかったようです。父は、普通の日でも執務時間が終る頃母や子供を事務所へ立ちよらせ、その時分ハイカラアなところのように思われていた中央亭で家族揃って夕食をたべたりしたことがよくありました。大抵土曜日ででもあったのでしょう。十か十一であった私が母や弟と事務所の通りをずっと来て、石段を三つほどあがり、手前へ引っぱるベルを、力一杯ひっぱると、ベルはいかにもバネのよい音でビーンと鳴ります。やがて黒い上っぱりを着た人が出て来て中からドアをあけてくれる。それが父自身のこともあり、小使のお爺さんのこともあり、ごくたまにはどなたか若い方の時もある。事務所のベルをひっぱる時の心持は全く独特でした。私達がゆく頃、ほかのひとは大方おられず、曾禰先生がおられることがあり、
「ヤア」
と、一寸眼鏡の上から眼差しを越して御挨拶になりました。その御様子は今日もあの時分のままです。小使のお爺さんは、縞の着流しで、紺セルの前かけをかけていました。地下室がある。青写真を水に入れてある。箱がある。それらすべては大変珍らしくて、あたりの様子は威圧的であって、私どもは事務所の中ではおとなしく振舞いました。父が話しかけるときでなければ、子供の方からは決してものを云いませんでした。それにまた、事務所の机に向っているときの父の姿の中には、うちにいるときの父とは違う緊張と威厳がある感じでした。
 時々妻や娘たちを事務所によらせて昼飯や夕飯に出ることは晩年までつづきました。こういう父の一面に公私混同をきらう気質がよくあって、仕事のことになると、家族であるなしということの情実に支配されることを極端にさけていたと思われます。長男の国男は建築をやっているのですが、父は建築家として彼を見ることではなかなか点が辛うございました。息子だからと云うので同じ事務所にいても特別に扱うことをひどくいやがっており、自力をつけさせようとしていたのですが、弟として見れば、技術上の先輩として父親として、して貰えたらと思ったようなこともまたあったでしょう。
 父は、自身さえ予想しなかったほど急に没する三日前、一九三六年一月二十七日まで、手帳を書き入れています。その頃つかっていた万年筆がこわれていて、インクの出る方を逆にあっち側に向けたような妙な持ち方で、しかも、これで書きいいから奇妙なものだ、と云って書いていた、その細かい、どこかに激しさのこもった筆蹟です。お正月の元日は、林雅之助氏と蓮台寺温泉に泊ったことが書いてあり、七日にはその休暇旅行のつづきで、保科氏、宮島氏と湯河原のあたりを散歩したことがあり。このときの三人の写真が、没後届けられ、一目見て、父の相貌が、これまでのどの写真にもなかった憔悴と哀れさ、何とも云えぬ鬼気めいたものを湛えているのに心を打たれました。
 けれども、その頃父はもとより自分の体の内部に起りかかっていた深刻な変調を自覚しなかったのでしょう。八日には「A・M・8。寿江子ヨリ電話。アタミホテルニ来遊ノ旨、歓迎ト答ウ。A・M・0木村徳衛氏来遊土佐(二字不明)解
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング