る。これは余程古いものであろうと好奇心に動かされて見てゆくと、方眼紙の第一頁に一九〇七年十月三十一日と英語で日附、「横浜倉庫」という見出しの下に、
[#ここから横書き]
(1) 埋立立坪 二円五十銭
(2) 石工 1.20
(3) 大工 1.00
(4) 人夫 .60
倉庫一坪(地下室及地層)八十二円
[#ここで横書き終わり]
などと記入されています。
続いて、小さい住宅プランを挾んで「日記。(共進会)」一九〇八・二・一〇とあり、文部省へ行って久留課長の紹介で某氏に会い名古屋へ出張して、県庁から共進会建築設計のために、嘱託辞令を受け、「旅費三十六円八十銭東京私宅へ郵送の約」などあるところを見ると、四十歳ばかりの父はまだ当時文部省につとめていたと見えます。
コンクリート建築が日本でもその頃から漸々一般化しはじめていたのでしょうか。 (A) Depth of concrete. (B) Rough and ready rule for finding the depth of concrete. などと、数学の式が図解とともに記されている箇処も見られます。
名古屋の共進会のために参考として一九〇〇年のパリ博覧会か何かのスケッチのほか、記念塔、時計塔、アーチ、パゴーラ、音楽堂等の自分のデッサンもこの帳面の中で少なからず試みられております。そしてこの時の音楽堂草案がサラセン風の加味されたものであることは、私に特別面白く感ぜられます。父は、洋風建築の基本的伝統としては英国風でした。しかしながらその手堅さの一面では南欧風の趣をもこのみ、サラセン式の唐草、華麗な色調がすきで、多分平和博覧会の時でしたか、山の上の建物を扱った時、音楽堂を、サラセン風にデザインしました。父が自分の空想の小さいはけ口としてその音楽堂の素描を私にまで見せたりした、その望みは十何年か前から既に心に潜んでいたものであったのかと、特に当時は父が大してすきでもなかった文部省の小役人であったとしてみれば、一層この実現したかしないか分らないデッサンにしたしみを覚えます。
この父の手帳は、それから相当の頁がブランクで続きます。
何程か経ってから小住宅のプランが三つ四つ出て来て、さて、私共にとって実に見落せない数頁が現れます。明治四十一年二月の日附で「曾禰達蔵氏
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