、前をとめるときには、ボタンの頭に、先の尖って柄の長い添えボタンをつかってはめておりました。それからおきまりの七つ道具をわたします。平べったい金時計、その片方の先にナイフがついている、虫眼鏡の度のちがうのがいくつも重って出て来るようになっているもの。紙入、そして一冊の平凡な手帳。ハンカチーフ其他――。
 この手帳こそ、父の生涯を通じての動く書斎であり、秘書のようなものであったと思います。誰かと会見する約束が生じる。すると父はすぐ内ポケットから手帳を出して、それを書きこみます。百合子、あさってひる飯に事務所へ来ないかい? ありがとう、行くわ。そのような内輪のメモにもなり仲通りの何処かで何か陶器の気に入ったのが目につくと、その場所、見つけた日づけ、時にはその陶器のスケッチなどもこの手帳にされました。
 一日のうちに、父は幾度、手帳を出しかけたことでしょう。実にまめに、何でもかきつけましたが、書いてしまうと安心するのか、それを見ないと、それっきりつい忘れてしまうことなどあり、いつかなど、ああ草臥れた、きょうは早くかえれて儲けものだとよろこび、すっかり平常着にくつろいでしまいました。やがてふと用を思い出したと見え、手帳をおくれともって来させ、頁をくっていたと思うと、やアこれはしまった、今夜はどこそこだった! という次第です。だから、お帰りになる前一遍よく手帳を御覧なさいというのにと云いながら母も手伝って、今度はモウニングか何かに改まって再び出かけたことなどもあります。
 父の手帳について一番なつかしく思うのは、自分の仕事を心から好いている者としての父の姿に結びついて思い浮ぶ様々の場面です。夕飯がすんで夜の九時頃、私が自分の勉強も一休みしようと部屋から食堂に出てゆくと、質素な、別に似合うでもないどてら[#「どてら」に傍点]を着た父がテーブルの横のところに坐って帳面をひろげ、鉛筆をもって頻りにプランを描いております。草案をねるという工合のようでした。小さく、いろいろに案配をかいて、いくつも、飽きることなく描いている。母は父の横でしずかに手の先の仕事をするか本を読んでいるのでしたが、母には面白いことにエレヴェーションは分ってもプランは会得出来ませんでした。三十六年建築家の妻であったが、父より三年早く没した迄プランは駄目でした。そこで私をつかまえて、父は自分が描いているプランの一つ
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