一つ一つについても敏感であったのは当然であろう。その点では談林のお喋りに反撥して、鬼貫が「まこと」一本やりで、すがた形を二のつぎにした態度から、歴史的一歩を歩み出している。芭蕉は、二六時「内につとめたる」主観と対象の刹那の結合で俳諧は出来るべきもので、つくるべきものではないとしたが、それは作為を拒んだので、一句一句そのものとしての世界が客観的に確立すべきことは目ざされていた。一つの句は一つだけ、自身のマンネリズムで作るなということもきびしい表現で云っていて面白い。芸術と人生の生きかたを刻々に流れ動きしかも不易である豊富な生命に一致させようという志から、一笠一杖の生活も発している。僧侶風な遁世とは違う。今日私たちが芭蕉に感じる尊敬と感興は、十七世紀日本の寂しさと現代の寂寥の質の違うことを確りと感情において自覚しつつ、従って表現の様式も十七字から溢れていることを知りつつ、猶芭蕉が自身の芸術にとりくんだ魂魄の烈しさによって、今日と明日の芸術の建設のための鼓舞を感じるところにあると思う。芭蕉は弟子に向って、師である彼の芸術的境地の「底をぬけ」ということを切に切に云っている。そういう人物の見当ら
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