れた。
 直次が、除隊後第一回の応召のとき、母はひろ子をつれて、わざわざ讃岐の琴平へ詣った。雨が降り出した。下の土産屋で、番傘と下駄とをかり、下界から吹き上げる風に重い傘を煽られまいとして、数百段の石段を本堂まで登りつめたとき、ひろ子は脚がふるえて動けないようだった。雨にうたれながら、母はお守りを貰ったり、祈祷をさせたりした。母ばかりでなく、何十人もの男女がそのあたりを右往左往しているのであった。なかには裸足で髪の上から油紙をかぶりお百度をふんでいる若い女もあった。杉の大木の梢すれすれに寄進された幾本もの祝出征の幟旗が立ち並んでいた。武運長久を願ってのことだが、五月雨に濡れそぼり、染色を流したそれらののぼり旗は暗い木下蔭で、幽霊じみて見えた。
「直次の出征のときの旗をもって来ようかと思ったが、却ってもって来なんでよかった、のう、あんた」
 ひろ子の耳へ顔を近づけて母がそうささやいた。その母の一心に上気に上気した顔にかかるおくれ毛や眉毛に、雨のしずくが光った。
 荷物をつめかえているひろ子は、家族的な追憶にみたされた。それは厳粛で、きびしい戦争をとおして営まれる日本の庶民のつましい生活の
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