がいない。
 重吉が、母の見舞にゆくようにとひろ子に云っていたのは、久しい前からのことであった。母の住んでいる所が最近特別な軍事都市になって、バスの中にさえ憲兵と書いた腕章の兵士がきっと一人はのっていた。その空気を思うと、ひろ子は行き渋っていた。この手紙を受けとってからも、猶ひろ子が網走行きに執着しているのと、そちらはやめて、母のところへ行くのと、どちらが重吉にとって、気がすむことだろう。
 しばらくして、帰って来た小枝が健吉を呼んでいる声がした。まだ土間に立ったままでいる小枝のところへ行って、ひろ子は母の手紙をわたした。
「ちょいと、読んで」
「何かあったの?」
 眼を走らせて、小枝は蒼くなった顔でひろ子を見上げた。
「おばちゃん。――どうなさる?」
「行かなけりゃ。重吉さんは、きっと私がそうすると思うだろうと思うわ」
「でも――何てことでしょう!」
 行雄も、やがて自転車で戻った。
「じゃ、切符は僕が何とか手配しましょう。姉さん、すぐ荷づくりなさいよ」
 話をきくと、行雄がそう云った。
「姉さんが歩いて行っちゃひと仕事だが、僕は自転車だから何でもないよ」
 こういう調子で、行雄がひ
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