せた。
 そのとき、門柱のところからすーと、片脚を自転車からおろして、郵便配達夫が、内庭へのり入れて来た。
「おばちゃーん! ハンコだって」
 寸刻をおしむような声で、伸一が叫んだ。
「どちらの? 富井の? それとも石田?」
「石田さんのハンコ」
 来たのは書留速達であった。石田の母から来ている。立ったまま、ひろ子は封を切った。母は型どおりの時候の挨拶をのべ、秋めきましたが、とひろ子の安否をたずねている。
 読んで行って、ひろ子は、思わず一二歩体を動かした。誰かに訴えようとするように、少し口をあいて顔をもたげた。広島で重吉の弟の直次が生死不明となっているのであった。
 直次は、三度目の応召で広島に入隊した。それは、七月中旬のことであった。只今となれば、いずれ内地勤務のことと存じ、という母の手紙を、ひろ子も同じかすかな安堵でよろこんで読んだ。八月四日に直次は休暇で帰って来た。そして、五日の夕刻、いそいで隊へ戻った、六日の朝、丁度朝食の時間に、広島の未曾有の爆撃があった。
 営内のトラックに三日後までいるのを見たという者があるが、詳しくは何一つ分らない。絶望としか思えませんが、せめては死に
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