北の中央の町から上野まで、僅か七八時間の短距離を走る列車は、混みようもひどかったし、気分もひどかった。潰走列車としか云いようがなかった。軍関係者、復員軍人、それらの大群集が、それっとばかり、矢庭に担げるだけのものをかつぎ、奪えるだけのものをかきさらって、我がちに乗りこんで来た。互に、あたり憚らず、どたんばでの利得についてしゃべり合っていた。
三日のちがいだが、東京という首都を通過して東海道を下るこの列車は、潰走列車ではなかった。八月十五日以来の第二段の後始末のために、動いている人々、そういう感じの旅客たちであった。かきさらえるものをさらってその場を見すてようとしている人々ではなくて、この旅の行きつく果に、それぞれ日本の新しい情勢によってひきおこされた課題をもっている人たち。そういう空気であった。
ひろ子の隣りに白い病衣をつけた傷痍軍人がのり合わせた。左脚が、太腿から切断されていた。下賜の義足が入っているという大きな木箱を、日傭人足のような男がかついで乗りこんだ。離ればなれに、病衣の人が三四人のりこんだが、看護婦も看護卒もついて来ていなかった。まだ自分の不自由さに馴れないそのひとは、自分が一つよろける毎に、や、すみません、と口に出した。この人は干パンを弁当として食べている。
この傷痍軍人と「教・総」とは真向いであった。京大の農学部を卒業して、九州の鉱山統制会社に勤めているという壮年の片脚を失った人は、パンをかじりながら、快活に北支で負傷した当時のことや、陸軍病院一ヵ年半の生活、終戦以後の滅茶滅茶ぶりを話した。
「看護兵なんか、何も知っちゃいないんです。だから自分たちは、オイ、ヨーチン、ヨーチンてってからかったもんです」
そう云って笑いながら、ワールド・カーレント・ニュースという英字雑誌の巻いたので丈夫な方の腿をたたいた。
「いや、どうか自信をもって生きて下さい。脚の片方ぐらいなくたって、人間は幸福になれるんだという信念で、明るく生きて下さい。決して卑下するんじゃありません。わたしもこの年までいろいろな経験をして来たが、これだけはお願いしておきます」
そう、白絹のシャツが改って云った。
「奥さんに対してなおってもね、ひがむことは禁物です。あなたがそれに負けはじめたら、万事休しますよ。奥さんにはもちこたえられなくなります。これも経験ですが」
それを云うのは、「教・総」ではなくて、荒削の相貌だが眼のなかには精神の動きが見えている白絹である。
ひろ子は、こまかい紺絣のもんぺ姿で、昔の女学生用編上靴をはいている。ひろ子が、のり巻の握飯をたべ終るころ、白絹と「教・総」とはくつろいで話しあっていた。
「満州では、何の御事業でした? 軍関係ですか」
「そうです。が、なあにほんのちょいとしたことでして――」
しかし共通な知り合いの軍人の噂が出ると、
「ふーむ。あれをお知りですか、そうでしたか」
おのずから、自分が満州でもっていた環境を「教・総」にさとらせてゆく。白絹はそういう会話のこつを心得ていた。
「教・総」は、やがて日本皇太子史論という小冊子をとりあげた。が、実際に読んでいる間はごく短かった。視線はじき頁から離れ、上向き加減にもたげられた二分刈頭、閉じられた瞼。その卵型茶色の小心律気な老年に近い顔には、能面のように凝固した表情があらわれた。唇は、その能面の上におかれた一本の短い色のさめた糸のきれはしのようになった。内心に一つの渦があって、外界の刺戟がゆるむと、忽ち全存在がその渦巻の中心へと吸いよせられる。そういう気配が感じられた。そしてその能面の表情には、微塵《みじん》も明日の閃きが感じられなかった。
名古屋を過ると、通路まで汗と塵にまみれた復員者とその荷物で溢れて来た。
はじめ元気に冗談も云っていた片脚の傷痍軍人は、列車が次第に目的地へ近づくにつれて何となし沈みがちに落付きを失って来た。京都に妻子が疎開していた。二年ぶりで帰る体を先ずそこに休めようという計画なのであった。
「電報がうまくついていればいいんだが――」
ひろ子をかえりみて、
「この節の電報は二日じゃあぶないでしょう」ときいた。
「よっぽど工合がよくないとね」
東北の町から、鮎沢のうちへ打った電報は、ひろ子が到着して、次の日まで逗留している間にさえ配達されなかった。
「弱ったな。荷物さえなけりゃ何とかなるんだが」
網棚の上の大きい義足の木箱を見上げた。
「お降りになるとき位、みんながお手つだいしますよ。駅のひとだって放っておかないんだし。――荷物は一時あずけにして、あとからとりに来ておもらいになれば」
「どうもすみません。じゃ、そうでもするか」
頭へ一寸手をやって、神経質に笑った。
「何しろ、はじめて社会へ出たもんで――これで病院にいた間は、同じよう
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