へ行った。もうあらかた荷物や人が積まれている。ひろ子は、車輪の軸に靴をかけ、ようようよじのぼって箱のようなものの上へ腰をおろした。六十前後の母親と若い娘が、並んでかけた。支配人は、荷車の前部へのった。
「のれましたか、折角ここまで来て落ちたらあきまへんで!」
 ともかく乗りもの、動いてゆけるものを捕えて、機嫌のよくなった人達がみんな笑った。
 人と荷物をもりあげて、荷馬車はのろのろ動き出し、ちっとも変化のない列のわきを通った。
「ほう、見い! これやもの、トラックは来ん筈じゃ」
 五六丁行った先に、おそらく二倍も三倍もの料金をはらう人たちだろう、一団のかたまりがあって、今、小型トラックが来て、その人たちを運ぼうとしているところなのであった。
「列に待っとったら、夜になりよるで」
 一日の稼ぎである幾往復かをしてその荷馬車は、帰り車であった。馬は首をたれ、折々尻尾で蠅を追いのんきな運びで進んだ。徒歩でゆく馬子は、それをせかせる気もちもない。ゆっくり六時までには明石につける。人々は、すっかりそれで安堵しているのであった。
 姫路を出てから、一日じゅうトラックをよじのぼり、這い下り、荷車にすがっていそいで歩いたひろ子は子供のように疲れた両脚をぶら下げて、荷馬車にゆられて行った。
 国道の両側に、すき透るような秋の西日に照らされてのびやかな播州平野がひろがっていた。遠く西に六甲あたりかと思われる山並が浮んでいる。空に軽い白雲が綺麗に漂っていて、荷馬車にゆられながらそれを眺めているひろ子の心をしずめた。
 こういう秋の午後、思いもかけない播州平野の国道を、荷馬車にのって、かたりことりと東へ向って道中する。重吉に向って、進んでゆく。ひろ子には、その時代おくれののろささえ快適に感じられた。ひろ子が住みなれている関東平野、東北本線で見なれている那須野あたりの原野とちがって、播州の平野には、独特の抑揚があった。一面耕されているし、耕されている畑土は柔かく軽そうで、それは遠望する阪神の山々の嶺が、高く鋭いのにかかわらず、どこか軽々と夕空に聳えている、その風光と調和している。ところどころにキラリと閃く浅い湖のような水面もある。
 その荷馬車に荷物だけのせて、自分たちは国道を歩いて来る二人の若者があった。背広の上衣をぬいで腕にかけ、なれて来たら、口笛をふきながら歩いている。
 二人とも元気な、歯の美しい若者同士である。ちょいちょい冗談を云い合って笑う。彼等の言葉は朝鮮の言葉であった。ひろ子が、この旅の往き来で見かけた朝鮮人たちは、すべて西へ西へ、海峡へ海峡へ、と動いていた。だがこの若者たちは、東へ向っている。
 若者たちにはうれしいことが行手に待っているらしく、殆どはしゃぐ仔犬のようにふざけたり追っかけっこのようなことをしたりして、あいだには歌をうたい、しかし車からは離れずついて来る。
 微風に梳《す》かれる秋陽は、播州の山々と、畑、小さい町とそこの樹木を金色にとかし、荷馬車は、かたり、ことりと一筋の国道の上を、目的地に向って、動いてゆく。かた、ことと鳴る轍の音は不思議に若者たちの陽気さと調和した。そしてひろ子の心に充ち溢れる様々の思いに節を合わせた。この国道を、こうして運ばれることは、一生のうちに、もう二度とはないことであろう。今すぎてゆく小さな町の生垣。明石の松林の彼方に赤錆て立っている大工場の廃墟。それらをひろ子は消されない感銘をもって眺めた。日本じゅうが、こうして動きつつある。ひろ子は痛切にそのことを感じるのであった。



底本:「宮本百合子全集 第六巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第十巻」河出書房
   1952(昭和27)年6月発行
初出:第1〜11節「新日本文学」
   1946(昭和21)年3月創刊号(第1節)
            4月第二号(第2〜5節)
            10月第五号(第6〜11節)
   第16・17節「潮流」(「国道」と題して発表)
   1947(昭和22)年1月号
   第1〜17節「播州平野」河出書房
   1947(昭和22)年4月
※「B29」の「29」は縦中横。
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年6月25日作成
2003年7月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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