、どうしてもここを出発する。そう思って、ひろ子は十一日の七時前に床をはなれ、布団を片づけた。二階の廊下から見ると、豪雨の翌朝らしい秋空が、碧《あお》く篠笹山の上に輝いた。しかし、空模様は不安で、西の方には煤色の雲がよどんでいる。
「さあ、きょうは出かけるぞ」
 隣室の一行も、金具の音を立てて荷物のしまつを始めている。
「おい、早く飯にしてくれるように、おばさんに云って来い」
 顔洗いのついでに、ひろ子は、東京までの弁当も勘定に入れた分量の米をもって下りた。入口から細長く土間のつづいた関西風の台所に、宿の嫁さんと娘とが素人めいたとりなしで働いている。小さな竈《かまど》で、小さな釜で、一行ずつの飯を別々にたいているのであった。
 けさ、出発することを話し、食事も早くするようにたのんで、ひろ子は室に戻った。そして、リュックの中を整理しているところへ、支店長が、艶のいい顔色で帰って来た。
「やあ、どうも、昨夜は失礼しました。私はおかげさんで、立派な夜具にねかせてもらってぐっすり眠って大助りしましたが……」
 まだそこに置かれている大盥に目をとめた。
「こんなに洩ったんですか」
「ええ。夜じゅう、電燈なしだったし。あっちへ泊っていらして、却ってこちらもよかったわ。ところで、トラック、どういう工合です?」
「ああ、トラック」
 なぜか、支店長はかすかにあわてた。
「我々が店まで行けば、すぐ何とかすることになっています」
「じゃあ、早く御飯たべなくちゃ」
「ああ、私はもうすんで来たですよ」
「それじゃ、なお大変だわ。下じゃ、一部屋ずつの御飯を別々にたいている始末なんですから……」
 台所へ下りて見た。五つばかりの孫娘がおき出して、甘えながら何かせびっている。野菜売りの女が来ている。その土間の隅で、ひろ子の分の飯はやっとふきはじめたところである。
「御飯が出来るまでに、すっかり仕度してしまいましょう」
 三十分ばかりすると、若い者が、支店長の荷物とひろ子のリュックとを自転車にのせて店まで運んだ。
 ひろ子は自分で、炊き上った飯を釜ごと二階へもち上った。急いで、食べ、あつい飯を二つの茶碗の間でころがし丸めて、握り飯をこしらえた。
 勘定をはらって、雨こそあがったが、まだ十分晴天にもなり切っていない往来へ出た。橋の手前の横通りの出水はもうひいていた。白鷺城の濠に沿ってた大通りは、今朝も森閑として、長雨に洗い出されたかたい小石がちのひろい路が、清潔に寂しく通っている。
 第一建物の店で、トラックの心配が出来るというのも、明石の手前が通れないというのなら現実性のないことである。結局、十一時に姫路を出て加古川までゆく汽車にのることとなった。
 加古川から明石まで歩くとすれば七里あった。
「どうです、奥さんに七里歩けますか」
「七里はとても駄目ですね。――けれどもね、あなたは大阪までだから、明石まで七里、元気を出して一日にお歩けなさるでしょう。先へ行って下すって本当に結構です。おかげさまでどんなにかたすかったのですもの」
 列車がひどくおくれているのに気をもみ、しきりに線路の前方をのぞきながら、善良な支店長は、更に一層明石までの道のりが、ひろ子に歩けそうもないことを苦にした。
「折角、愉快に道づれになってもろうて、途中で妙なことせたら、寝ざめ悪うてかないませんよ」
「そういう風にお思いにならないでいいのよ。折角気もちよく道づれになったんだから、これから先は私の足相応に、あなたはあなたの足の力で、お帰りになっていいんですよ。全くそうよ。愉快な道づれが、しまいにお互の荷厄介になるのは、こういうとき、つまらない遠慮でやりかたを間違えるからですよ」

 加古川の駅でみんな汽車からおろされた。不安な顔つきを揃えて改札口を流れ出た旅客の群は駅前の広場にトラックが二台待機しているのを見て、歓声をあげた。
「まあ、よかったこと!」
 ひろ子も、しんからうれしかった。明石まで一人で歩くということは、云うよりもはるかに辛いことなのであった。
 二台ともマル通のトラックで、加古川の青年たちが、旅客整理に出ていた。三列で十人。三十人一組一台のトラックに割当てて、二円ずつの料金をあつめた。秩序のあるそのやりかたも、皆を満足させた。
「のこった方は、すぐひきかえしでお送りします」
 ひろ子らは、二台目のトラックにのった。加古川の駅前は、船が通るほどの浸水だったと姫路にはつたわっている。それほど水の出た気配もない古い宿場町をぬけて、トラックは左右に明るく展望のある一本の国道へ出た。これで、明石まで行けるのかと、料金のやすさを怪訝《けげん》に思い浮べているとき、トラックは、急に速力をおとして、畑の横に停った。
「どなたも、このトラックはここまでです。先はまた別に連絡があります」
「なー
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