でもなく暮しているらしかった。
 姫路という町の、破れ屋のようになった宿やに泊る端目になったことに、興をもってひろ子はあたりを眺めた。その日は、十月九日であった。きょうあたり網走の刑務所を出たとしても、重吉が四五日かかって東京へ着くまでには、まさか自分も帰りついていられるであろう。その安心が一つあった。東北本線は、山陽線とちがって、被害をうけていない、それも、ひろ子を安堵させた。リュックの中には一升五合ばかり米がある。これがまた更にひろ子の気を楽にさせるのであった。
 次々とこんな故障を征服して、一歩一歩、東京へ向って近づいてゆく。そのことは、却って、ひろ子の心を鎮める作用があった。網走から重吉も一人で、不便にあいながら、その困難を克服しながら東京へ向って来ている。二人は東京の家で逢う。ひろ子は平静にその瞬間を想うことが出来なかった。平静にそれまでの一日一日を待ちこすことも出来にくかった。もし、汽車が一夜ですーっと自分を東京まで運んでしまったとしたら、ひろ子は、重吉が来る迄の時間を、どうして過したらよかったろう。じっとしていられず青森まで出かけ、さて、そこでゆきちがったりしたら。――
 新しい故障、新しい道づれ。それらは、ひろ子の精神を、当面の必要のために落付かせ、ひきしめた。一つ一つ、こういう段どりを重ねて、東京。そして重吉というひろ子にとっての絶頂に達する。一つ一つ過程の曲折を、入念に力いっぱいに経てゆくこと、それこそひろ子にとって、十余年の忍耐のうち、身も心も傾けつくしてうたおうとする歓びのうたに、ふさわしい序曲の展開と感じられるのであった。
 ひろ子の一行が案内された当座しずまっていた隣室が、自然な騒々しさをとり戻した。隣室には、裏の縁側まで荷物をひろげて、朝鮮から復員した五人の兵士たちが降りこめられていた。もう一室、表側の室の復員兵たちと、ゆき来していて、なかに一人おっつぁん、おっつぁんと皆から呼ばれる、高声の慷慨家が交っていた。
 ひろ子らがつくと間もなく、割烹《かっぽう》服のかみさんが上って来た。宿帳をつけるでもなかった。
「ほんに、屋根の下にいるだけましと思っていただきます。御布団も何も疎開してしもうて、久しゅう廃業しとりますのに、皆さん、難儀なさかい、とめるだけ泊めえ、おっしゃりまして――」
 三人分の米を出しあい、かみさんはそれをもっておりて行った。新しい道づれの持っていた大きいボール箱には、ひろ子の口に珍しい松茸がつまっていた。
「きょう中に大阪へつく予定だったんで、米をもっていません、すみませんが……あした何とかしますから……」
 岡山から乗ったその男の松だけが、お菜になって出た。
 膳が運ばれたとき、新しいつれは、
「どうです、一口」
 そう云いながら立って床の間のスーツ・ケースをあけた。
「一口って――あるんですか」
 支店長が、きらいでもなさそうに、そっちを見た。
「ありますとも。――私は、人の機嫌をとる商売でしてね」
 アルコールの壜を出した。それを注いで水をわった。
「案外いいですよ、さっぱりして」
 支店長は、うたがわしそうに小コップをとりあげ、日本酒ののみかたで、チビリと流し込んだ。
「何や……こう……えろうカーッとしますなあ」
「そうですか、馴れるといいもんだがな」
 一方は、ブランデーをのむように、パッと口の中へあけるようにのんだ。
「――奥さんいかがです」
「私は無調法なんです、本当に駄目」
 新しい道づれは、名を云えば大抵のものは知っているらしい大阪のキャバレーの持ち主であった。ひろ子は、文楽以外に大阪をよく知らず、そのキャバレーがどんなに大規模なのかも知らなかった。慶大かどこかを出たその男は、惰勢とか卑俗とかいう字句をつかって自分の商売を客観的に、時には自嘲的に語りながら、やはりとことんのところではそれにひかれ、そういう面での敏腕をたのしんでもいるらしかった。
 表の三畳間に、一人永逗留の女客がいた。ひろ子は、そのひとの布団に入れて貰って、朝まで熟睡した。
 部屋へ帰って見て、ひろ子は思わず笑い出した。
 一枚のきたない掛布団をしき、二人の男が、行儀よく並んで仰向いて、パチパチ天井を見ている。上に一枚かかっているのも薄い掛布団だが、それは二人にかかるように横にしてあった。小柄な支店長の方はまだよかった。けれども、背のぐっと高いキャバレーの主人のやせた両脛は、白いズボン下を見せて殆んどむき出しになっていた。
「お寒かったでしょう、それじゃあ」
「いや、なに」
 そういうものの、二人ながらそれぞれに閉口していることは一目瞭然であった。
 又米を出しあって朝飯をして貰った。終ると男二人は前後して、降ったりやんだりの雨の中を駅まで様子[#「様子」に傍点]みに行った。
 一人になった部屋で
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