たその兵士が、襟元をはだけたなりで皮肉に笑った。
「何しろ、ゆうべ動いた筈のところが御覧のとおりなんですからね――やれ、やれ、人間万事しんぼうが大切さ」
 ところが、思いがけず定刻の六時半に、その列車は三原駅を出た。
「出ましたよ!」
 支店長は、しんからうれしそうな笑顔になって上体をのり出した。
「これでよろし。――大分運のええ方や。――これでよし、と」
 彼は大阪まで帰りつけばよいのであった。安心して、座席へもたれこみ、素人目では異常の分らない両眼をとじた。
 ひろ子のこころは一途に東京に向っていた。その途中でおこって来るいろいろなこと、たとえば昨夜、見も知らない女集金人のうちへ泊めて貰ったというようなことも、大して苦にならなかった。ひろ子が一途なこころもちだから、そうであるばかりでなくその頃の日本にまともな旅行というものが無かったのであった。
 列車が岡山にさしかかる前後から、沿線の風景はただごとではなくなって来た。徐行しはじめた列車の左右は広大な浸水地帯であった。既に何日間も動かない水の下になっている田圃から、一粒の実もはらんでいない稲が、白穂となって悲しく突たっていた。白穂は水面に立って、薄《すすき》のように風にそよぎ、細雨に空しくゆれている。水の中に、農家が点在して見えた。それらの農家と農家との間には、小舟ででも通行するしかない水の深さに見えた。少し山よりの高みでは、重吉の家でもそうだったように家のめぐりに、ありとあらゆるべた土まびれの家財が運び出されていた。運び出されたままきょうの雨に濡れている。
 物音一つしなかった。一望濁水に浸されて人影のない風物は、住民の絶望の深さを語った。
 両手をしぼるように握り合わせ、窓外の景色から目を離せずにいるひろ子をのせて、列車は一時不時停車をし、それからは最徐行で進んだ。線路が全く水の下になってしまっているのであった。
 進行する列車の車輪の下から、大きい水しぶきがあがった。ほとばしる水の音は、不安に殺している苦しい息を一時に吐き出すようなボボッ、ボボボという機関車の乱れた排気音に交った。
 どうにか姫路駅まで辿りついた。緊張している乗客たちは、窓から首を出してプラットフォームを通りがかる駅員に、先の模様を訊いていた。ところへ、もうこれから先へは行けないそうだという噂が前部からつたわって来た。みんな立ち上って、騒然となった。その車の外を、若い駅員が、ちっとも親切気のない無関心な声で、
「みんな出て下さい。この列車は先へ行きませんよウ」
 片手で帽子をうしろへずらしながら呼んで通りすぎかけた。すると、ひろ子の向い側の座席にいた四十がらみの痩せぎすの男が、さっと立って、
「おい君! 君!」
 思いがけず野太い、人を服従させつけている者の調子で窓ごしにその駅員をよびとめた。
「そんな誠意のない物の云いかたがあるか! みんな長い旅行で難儀しているんじゃないか。――中へ入って来、そして、説明したまえ」
 あちこちから賛成の声が起った。暗いプラットフォームの屋根の下に停っている上、すべての乗客がざわついて立ち上っているためなお薄暗い車内に、その駅員が入って来た。そして、改めて、
「この列車は、水害のため、姫路止りであります。どなたもお降り下さい」
と告げた。乗客たちが駅員をとりまいた。が、結局、姫路の先の水害故障というのはいつ恢復するのか、どこの地点が故障なのかさえもはっきりしなかった。
「仕様がない、降りましょう」
 背広も、合外套も渋い好みで、スーツ・ケースと大きいボール箱を下げたその男が、今度は新しい道づれに加った。
 雨でよごれたプラットフォームに、覆布をかけた郵便行嚢の高い山がいくつも出来ている。ひろ子が、田原の家で、網走から解放されようとしている重吉のために書いた速達も手紙も、恐らくは、みんなこの湿っぽくて陰気な、いつ発送されるか見とおしもない郵便物の山につっこまれているのだろう。
 プラットフォームは大体もとのままであった。が、駅舎から全市街の大半が焼かれていた。眼のわるい支店長、ひろ子、新らしい道伴れ、三人は、人群にまじって荒板づくりの仮事務所の前に立った。姫路駅では正確な故障箇所の告知板さえ出してなかった。いつ恢復する見込なのか。そんなことを知る必要もないという駅員の態度である。
「君たち、商売なのにそんなだらしないことってあるものか。鉄道電話は何のためにあるんだ」
「電話なんてあらへんよ、焼けしもうて。――」
 頓馬! というような眼付をして、新しい道づれをジロジロ眺めながら若い駅員は平然と答えた。
「もうとっくに、電信不通や!」
 これでも文句があるか、というように答えて、雨の降っている地べたへ煙草の吸殼を投げすてた。
「――鉄道ラジオ一つないんだから……。外へ出ま
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