場云々をかざしながら、片手はその扉にかけて、あける気があるふりをして見せるとは。ひろ子は、自分の涙さえ、これについては流すまいと決心した。それほど憤りに燃えた。
 この時分から重吉の、しん底からの人間らしさが、やっと本当にひろ子の身と心にしみ入った。二人で暮した期間が余り短かかったのと、重吉の活動に直接加わっていなかったのとで、別れて暮すようになってからひろ子は重吉に対して、いくらか具体性のとぼしい、そのくせ子供めいた敬意をもちつづけて来た。けれども、重吉が、買いものなんかして置くがいいよ、と、おだやかに、ひろ子を惑乱させないようにと心をくばりながらつたえたとき、重吉の体は、あんなに大きくなって面会窓から溢れ出すように見えた。ひろ子の目にだけ、そう見えたのだと決して思えなかった。そこには、重吉の思いも横溢していたのであった。だのに、それがむごたらしくはぐらかされたとき、重吉はあれほど自然だった大きい横溢を収拾して、新しい事情に立った。ひろ子の心情をも支えて立った。その体温が自分の皮膚にもつたわる良人としての重吉を、この時ほどひろ子が瑞々《みずみず》しく、そしてひしと感じたことはなかった。妻たる自分のこの手の指、この足が重吉につながっている。互の間にひとしおの理解と献身の泉が掘りぬかれた。第二の新婚が経験された。それは、未熟なひろ子にもたらされた一つの豊かな変革であった。
 ひろ子は、十二年の歳月のうちにこういう思いを経て来ている。重吉が帰る。――もしも、もしも何かの事情でそれが実現しなかったら。もう少しというところで、何事かが重吉の身の上、或は重吉のもっている条件の上に起ったら。
 ひろ子は、生きていなければならなかった。それがいつになろうとも、重吉と暮せるときが来るまで、頑固に生きて行かなければならなかった。その失望が、自分を生きにくくするかもしれない、と思うほどの待望を、今、ひろ子は却って自分から押しのけようとするのであった。
 友人たちの話との間に、宵宮の祭りにあたったその町の夜の往来をカラコロ、カラコロと通ってゆく下駄の音が冴えて聞える。リーンとすんだ自転車のベルが駛《か》けぬけてゆく。久しぶりに聴く都会の夏の夜らしい物音に、ひろ子は懐しく耳を傾けた。本棚にもたれ、団扇《うちわ》を膝においているひろ子の心に、重吉への思い、一家の柱である息子を失った田舎の母た
前へ 次へ
全110ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング