ると云う春興行を見たがって居る。
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「貧亡[#「亡」に「(ママ)」の注記]してても芝居は見たいものと見える。あんまり芝居ばっかり見たがって居るからあんな苦しい暮しをするのだて。
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と祖母は、おともさんがもらった真綿の胴着を抱えて喜んで帰って行った後でしみじみと云って居た。年を取ってから貧しい生活をして居るものを祖母は一層同情するらしい。自分の身に引きくらべてでもあろう。
夕方近くなってから牛乳屋の人と、あの先《せん》に私に石を投げた甚助の家の男の子が母親と一緒に来た。
私はその児を見ると「オヤマア」と云った様な気になったし、その子も間が悪いと見えて母親の陰に顔を引っこめて仕舞う。紺の筒袖を着て、拇指の大抵出た足袋をはいて居た。母親は水をつけて梳いた櫛巻きにし、幾度か水をくぐった、それでも汚れてだけは居ない着物を哀れげに着て居る。低い声で入口に立ったままお喜びをのべ、
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「お目出度う、ござりやすと云うものだぞえ、これ。
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と、はにかんで居る男の子の頭を平手で押しつける。
ポクリと否応なしに頭をさげると男の子はすぐ母親のそばをはなれて門のわきに行って仕舞った。祖母は、二三枚の着古しの着物と足袋と、子供に何か買ってやれと少し許りの金をやった。女は、私が気恥かしい思をするほど丁寧に礼をのべて、門柱の処からこっちを見て居る男の子をさしまねいて、
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「何か買えとお金を下すったかんない。お礼云うだ。
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男の子はまたポックリと首をまげて、クドクド何か云う母親の手を引っぱって帰って行った。門の処で振返ってこっちを見た、男の子の、悪図々しい様な、憎々しい目の色を、私はいつまでも覚えて居た。
歌留多をとるでなし、人の訪ねて来るでもない、寒い夜は、早くから炬燵に入って、いかにも雪国らしい、しずかな時を送る。
此処いらの正月は、盆よりはにぎやかでない。正月は、ひどい寒さでもあるし、蓄《たくわ》えの穀物があんまり豊かでない時なので、貧しい村人は盆をたのしみに、晴着をつくりたい処も、のばしておくのである。
元日に年始に来ないものは大抵二日になっても来ない。その来ない人達は、旧の正月を祝うのである。東京に居て他家へ行ったり来られたりしてすごす七草まで位の日は大変早く、目まぐるしいほどで立って行くけれ共、此処の一日は、時間にのび縮みはない筈ながら、ゆるゆると立って行く。
東京の急がしい渦が巻き来まれて、暇だとは云いながら一足門の外へ出れば、体中の神経に、はげしい刺激を受けなれて居るので、あんまり静かにのびやかに暮して居ると、日一日と体中の機関が鈍って行く様に思われる。実際鈍って行くのかもしれない。道を歩いても、ポツリポツリとほか人に会わなかったり、たまにガラガラ人力がすれ違う位では、のびやかだと云うのも一月位で、あとは、物足りない、何となく隙のある様な感じを与えられる。眠ったまま正月もたって行く。羽子を突く音もしなければ、凧のうなりもきこえない。子供達は、何と云う名なのか知らないけれ共、地面に幾つも幾つも条《すじ》を引いて、その条から条へと小石を爪先で蹴って行く遊びを主にして居る。首に毛糸で編んだ赤や紫の頸巻の様なものを巻きつけて懐手をして、青っぱなを啜り上げ啜りあげ、かさかさな顔をして広い往還の中央にかたまって居る。犬同志をけしかけてけんかをさせたり、猫に悪戯をしかけたりして居る。
女の子は、一本三四銭位の花かんざしをさして、やっぱり頸巻をまきつけて、菓子屋の店先だの家の角《かど》などに三人四人とかたまって、何か話したり、砂利を入れた木綿の「石なご」(お手玉)をしたり、石のおはじきをしたりして居る。木綿の着物にメリンスのお立てなんかにして居るので、妙に釣合が悪くて見っともない。
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「きいちゃんの帯いいんだない。どこさから買ったのけえ。
「これけえ、
伊勢屋げからよ。
お蚕様の時、偉《えれ》え働いたちゅうて買《こ》うて呉れたのし。
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この地方特有の妙に、しり上りの口調で話してなんか居る。
こう云う処に居ると、私と似寄りの年頃の話し相手はまるで出来ない。言葉の違う故《せい》か、きまりを悪がって、どんなに私が打ちとけても口一つきかないのである。それにまた、この村には割合に、娘や若い男の子が少い様に見える。中学校に来るものは大抵他処のものなので、学校の休中は大変に静かになって居る。私が話しかけて快く返事をしてくれるものは大方、年とったものか、女房になったものでなければない。此処いらの一体の子供が、はにかみやのくせに悪口をつくから、何だか私にいい感じを与えない。
町の三つに分れる処にある床屋には、沢山若い百姓が集って居る。
極く極く質朴な処が若い百姓には少なくて、金のある時に町へ行って買いためたハンケチだの、帯だの、ニッケルの時計だの、指環だのをあらいざらい身につけて、新銘仙の着物等を着て居るのが多い。節くれだった小指に、鍍金《めっき》の物々しい金指環をはめて居たり、河《かっ》ぱの様にした頭に油を一杯つけて、紫の絹のハンカチでいやらしく喉を巻いたりして居る様子は、ついしかめっ面をするほどいやだ。何故こんな様子がしたいんだろう。純粋の百姓の様子で何故いられないのだろう。都会の、借金して縮緬の紋附を着る浅ましい気風がこんな山中にまで流れて来て居るのだろう。
教育家でなく、宗教家でないでも、いやな事だと思うよりほか仕方がない。斯うやって、鍍金の指環をはめたい男達は、自分の能力を考えもしずに都会の派手な生活にあこがれて、上野の停車場へ降《お》りさえすれば、目の前に金のもうかる仕事が御意のままにころがって居ると思って居る。それほどに思って居ないにしても、とにかく、非常に易々と成功を遂げられるものだと思っては居るに違いないのである。
娘でも、東京へ出て一二年奉公でもすれば、立派な奥様になりあがって、明日はどこの芝居、その次の日は何の会と歩き廻れるものの様に思って居る。都会の奥様は、日髪、日化粧で、長火鉢の前で鉄瓶の湯気の番人をして居ればすむ様に思って居る。
東京――都会の生活を非常に理想的に考えて居る事、都会に出れば、道傍の石をつかむ様に成功の出来るもの、世話の仕手が四方八方にある様に思う事、食うに困る事等はない様に思う事等は、東京の生活をしたものがあんまり馬鹿馬鹿しいと思う位いに善い事ずくめに想《おも》って居るのである。東京を見た事もないで、どうしてそんなに善いとばかり想って居るかと云えば、東京見物に行ったものの土産話しと、雑誌の記事写真によるのである。
農業休みに十日か二十日の東京見物に出かけたものは、只にぎやかな町の様子、はやしたてて居る見世物、目のさめる様な店飾りにイルミネーション、立派な装で自動車を飛ばせて行く人、ぴかぴかに光った頭の婦人、その他あれやこれや、只もうにぎやかなパッとしたむく鳥おどしに仕掛けてある事にまんまとおどされて、刺激の少ない処に居て急にさわがしい処に出たので、いいかげん頭が熱くなって、自動車、電車に幾度か「きも」も消して、何の得る処もなく、
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「いやはあ、東京ちゅう処は、はあ偉えこんだよ。
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と帰って行く。耳のそばで十《とお》の金だらいを一時にたたかれた様なガーンとした気持で帰って行くのである。そうしてする土産話は、にぎやかな派手な自動車の事や、三越で何百円とする帯を買って居た奥様の話ばかりである。
雑誌は雑誌で、一文なしで上京して大臣の椅子を占めた人の話や、苦学して博士になった人の話やが山ほどある。若い者の奮発心を起すにはこの上ない事ではあるが、一文なしで上京して大臣になった人などは、大抵維新の時にそのきわどい運命の瀬に立った人ばかりである。義務教育をすましたばかりの若者の頭には時代と云う考えがない。すっかり秩序的になった今の世の中を維新当時とごたまぜにして居る。そして、自分も大望を抱いて東京へ飛出しは飛出しても、半年位後にはやせてしおしおと帰って来るか、帰るにも帰れない仕儀になったものは諸々方々に就職口をさがしあぐんだ末、故郷の人に会わされない様なみじめな仕事でも、生きるためにしなければならなくなる。
東京を一寸も見た事のないものに東京を紹介する雑誌は、責任をもって着実な考えで東京を知らせ、良い処よりも悪い裏面を多く知らせた方がまだ不難だろうとさえ思われる。田舎の若者が、皆が皆東京へばかり出たがって仕舞っては、ほんとうに困る事だろうと思う。
農民はたしかに低級な趣味と智能を持って居るばかりだと云って良い。けれ共、農業をする事の大切だと云う事を農民自身に感じさせたいものだと思う。東京へ東京へと浮足たって居ながらする農業は、目覚ましい発達を仕様はずがない。東北の農業の振わないのは、農事の困難なため、都会へ都会へと皆の気が向いて居る故《せい》でも有ろうと思われる。西国の農民は富んで良い結果をあげて居る。農作に気候が適して居るので、農事に興味があって、自分が農民である事に、満足して、自分の土地以外に移って新らしい職業を得様などとはあんまり思って居ないらしい。東北は気候が悪い。農作の結果があまりよくない。それにしたがって興味もうすいわけだが、農業にしたがう事は、大臣とかわらない、大切な立派な仕事であると自覚し、はたでもまた、雨につけ、風につけての心づかいを思いくむ様にしなければいけないと思う。
とにかく、東北の農民、――これから進歩した農業を仕なければならない筈の若い者が、自分の故郷、仕事をはなれたがって居る事は、真にいとわしい事である。
底本:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社
1981(昭和56)年12月25日初版
1986(昭和61)年3月20日第5刷
初出:「多喜二と百合子 七号〜十三号」多喜二・百合子研究会
1954(昭和29)年12月〜1955(昭和30)年12月発行
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2008年8月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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