のまだ知らない東京の生活や一年に一二度映画で見る外国の街での若い人々の生活や、少くともここのまわりの毎日とはちがった華やかで甘美な気分への憧れ心を刺戟した。お縫は東京暮しをすることが自分の生涯にあろうと思っていなかった。まして外国なんか。だから一層そういう憧れ心はお縫にとってただ心持よいだけのものとして感じられるのである。――今夜は茶わんを洗いながら、やかましい三味線をきいていて不図これまで思いもしなかった或ことに気がついて、お縫はひそかに正一にすまないように感じた。何故なら親たちと一緒に正一が洋楽を好かないのを、お縫はずっと只頑固なのかと思ってもいたし、少し意地わるく、若しかしたらわざと猫をかぶっているのかしらとも思わないでもなかった。兵隊に行っていて、その二年間は都会の空気の中で暮して来た正一が、ジャズなんか好きになってかえったとしれると、その間に小遣いなんか送らせた理由も勘づかれ、面倒になるから跋《ばつ》を合わせているのかと思った。けれど、もし正一の洋楽をきらう心持が別のことからだったらどうであろう。洋楽をきくと自分と同じに心持を動かされ、しかも、少しはこういう辺鄙な村にはない生活の断片をも知っている正一が、現在ここにありもしないものになまじっか心をひかれるのが厭で、ジャズなんかききたがらないのだったとしたら――。
 おさやが茶がわりに飲むハブ茶を七輪のおきにかけながら、お縫は、はっきりと一つの笑い顔を思い出した。それは正一が除隊になってかえって来て、組合が祝の酒盛をした時のことであった。重蔵なども先に立って、お縫の耳にきき苦しいような冗談を云っては正一の嫁とり話が出た。正一はうすら赧い顔をして笑っていたが、それは決してうれしい笑いでも、極りがわるいだけの笑いでもなかった。そして、しまいには、何かに楯ついているようにむっと、
「もうええ、もうええ、わしは二十六まで嫁はとらん!」
と云った。庄平の家の負債のことは村じゅうが知っていた。この家の下の土地が自分のものでないことも分っている。正一が中学を中途迄しか行けなかったこともしれている。正一がトラックを運転している姿を見るとき村の人々はそのことを思い出したとしても、感心な、と云うであろう。だが、あなたの娘をやりなされと云われれば、それらのことは、全く別様の条件となって思い出されて来るのである。
 お縫の姉のおたみは、遠縁をたどって神戸の方へ見習いに出ている。そこにも、自分の幸福をさがし求めている娘の心持がある。
 五燭の電燈で仕舞風呂に入っているお縫の頭の中から、これらの考えは消えなかった。
 レートクリームのかすかな匂いをさせてお縫が中の間に来たときは、おさやも加わって、一しきりうつらうつらの醒めた頃合であった。正一が、店のところで、煉炭火鉢の上へ跨りかかるような恰好をし、モジリを着た男と何かかけあっている。
「マアそう云わんと、ちょっとやっつかわせ。手伝《てご》うするもんはいるんじゃけに……」
「あすは、買い切りじゃがで……」
「一日二日はくり合わせますけ」
「さア――無理じゃと思うなあ……」
 押し問答の後、男はそこに置いていた自転車のライトをとりあげて出て行った。正一が、
「なんぼこまいかて、家一軒で四杯ちゅうことがあるけ」
と電燈の下へ戻って来た。
「なんで?」
「柳下の郵便局のおっさんが死によって、保坂へその家を引くんじゃそうな……二十四円で請合えと云いよるんじゃ」
「そりゃいけん」
 おさやが、坐り直すようにして首をふった。
「無理であります。柳下の家は見ちょりますが、こまうはありません」
 黙っていた直二が、その時突然大きい声でそう云った。
「おお、そうそう」
 思い出しておさやが、
「さっき組合から、米を出すちゅうて来よった。一俵三銭じゃ行くますまいと云うといたが――」
と云った。
「ガソリンがこう上っちゃ、運賃も上げにゃならんが、鉄道運賃が居据りじゃけに、きついなあ」
 おさやは、辛辣なところのある口調で、
「上田じゃ儲《もうか》りよって儲りよって困るじゃろ」
と笑った。上田は「日石」のこの地方唯一の特約店で、海軍工廠へも上田の店からでなければ重油が入らないのであった。
「おかあん、あした局へ行くで――」
「そいじゃ、見とかにゃ」
 箪笥の引出しをあけて、おさやは白木綿の包みやら、庄平の恩給証書を出した。ついでに、
「こりゃ、どんなもんじゃろ」
 一枚の株券を正一たちの前へ見せた。
「何であります?」
「坂口はんのや――警察に押えられてあったの、ようようかえして貰うたんじゃと、どういうもんか調べてくれと置いて行きよったんじゃが」
「これ、何で――その建鉄会社ちゅうの――」
「分らん」
 直二が、兄のわきから口を尖らしてのぞき込みながら、
「五拾円と書いてある」
と云った。
「坂口はん、知っとってじゃないんでありますか」
「知らんの」
「反古《ほご》とちがうのか?」
 正一が気味わるそうな指つきで、その一応は印刷になっている株券をつまみあげたので、皆が笑い出した。おさやは改めてそれを手に取って眺めた。
「本当に値うちのあるもんやったら、なんぼ警察やて、半年も放りこんでとりあげちゃ置きやすまい。株屋は、つかまりよったんか?」
「つかまっちゃおらん」
「今は憲兵隊になっちょります」
と直二が生真面目に持前の大声で云ったので、又、笑った。坂口の爺をひっかけて、初め二百円程儲けさせ、千円ばかり出させた株屋が、現金の代り、今取引しかかっているのだがあなたが是非今日と云うならばと、その建鉄株を現金に相当な額面だけよこして、翌日はその店から行方を晦《くら》ましてしまった。何か犯罪があるということで、坂口が渡された株券は証拠物件として半年も警察にとりあげられていたのであった。
 正一が、
「うっかりすると、坂口はん首つらんならんようになる」
と云った。
「夕方、下屯田をひょっこひょっこ歩きよった」
「茂一の店へゆきよってのじゃろ」
 真偽の知れない株券はそれなり又箪笥へしまいこまれた。
「箱をかえにゃいけんなあ」
 ひとりごとのように云いながら、おさやが隅のつぶれた「朝日」のボール箱を引出しからとり出してふたをあけ、ちょっとなかを調べて埃を吹いた。
「なんで」
「お父はんの勲章や」
 お縫が、
「あら、うち、見たこと一ぺんもないわ」
と云った。
「軍隊手帳も入っちょりますか」
「入っちょる」
「どれ」
 金鵄勲章という名だけはきいていて、お縫は現在目の前のボール箱の中に入れられている品とは何かしら見かけも全く別なものを想像していた。こういうものにも沢山の種類があるのであろう。その箱の中に、庄平が達者だった時分の写真が偶然一枚混りこんでいた。黒紋付を着て、その勲章のほかに二つ並べて胸に下げている。写真にうつっている方が、却って本物らしく見られるのであった。
 皆、暫くは何も云わずに勲章を眺めていた。やがておさやは黙ったまま、元どおりボール箱の蓋をして、株券と同じところにそれをしまい込んだ。



底本:「宮本百合子全集 第五巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第五巻」河出書房
   1951(昭和26)年5月発行
初出:「改造」
   1937(昭和12)年6月号
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年4月22日作成
2003年7月5日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング