ものと地上のものとを眺めていると、お縫は潤いのかけた日暮しのなかにいる自分の心に優しくふれて来るもののあるのを感じた。自分だけのそういう一刻を大切に心にふくんで味おうとするように、お縫はゆっくりと丁寧に重い黒い洗濯ものを竿にひろげて行った。

 二年ばかり前、おさやは息子たちにせめては借金のほかにものこしてやるものをと、生命保険に入ることを思い立った。近所にタバコ屋をしながら片手間にそういう世話をしている家がある。入ればそこが分《ぶ》をとるから、早速三停車場ばかり汽車で行って手続きして医者が来た。別に故障のない体であったが、二の腕にまきつけてしめる妙な道具を出した結果、血圧が高すぎておさやの保険は駄目ということになった。
 そういう体に熱い湯はいけないと云われたし、おさやにしても庄平を見送らないうちは大事な自分の体と知りながら、五十年来の習慣はやめられない。湯の音がしたかと思うともうあがって、濡れて光る鬢《びん》を鏡もみず掻きつけながら、おさやは店先の神棚の前へ行った。マッチをすって右と左と御燈明をつけた。そして、その前へ立ったなり神社でするとおりパンパンと力のこもったせわしない手ばたきを二つした。それは、おがむというより神様の目をぱっちりさまさせる音のようにはきはきしている。
「あーッあ」
 ひとりでに抑揚のある声が出るほどきっかり頭を下げておいてから、足早に庄平のねている中の間をぬけ、台所前の六畳へ来て勢よく戸棚の唐紙を引あけた。手のはずみで左側の唐紙をあけたりするときもあって、そうすると戸棚の中から古い経木の海水帽だの、とじめがきれてモミがこぼれるまま放りこんである枕だのが現れる。おさやは、物も云わずぴしりとそっちを閉め、右手の唐紙をあけ直した。そこに仏壇があった。仏壇の内には吊り燈明があるが、火の用心のためにふだんはそれをつかわず、電燈から豆電燈がひきこんである。それをねじって、今度はともかくその前に坐り、同じように活気のあるせわしさで鐘を二つ鳴らした。数珠を左手の先にかけて、南無南無と称え、ここでも、
「あーッあ」
と抑揚をつけて頭を下げる。
 おさやは台所の土間の方へ向って、そこで水仕事をしているお縫に声をかけた。
「まだ帰っちゃこまい?」
「まだです」
「あ。――ちごうたか? 正らすぐききわけてどこの車か当てよるが、私にゃてんと分らん」
「さア……ちがうようにもあるが……」
 遠くの角で聞えたクラクソンにつられて、お縫が店先へ見に出た時、一台の乗用がもう暗くて見えない砂塵を捲きあげながら村道を走りすぎた。
「まアええ。きょうはどうで八時じゃろ」
 夕飯の仕度はすっかり出来あがって、土間は六畳から射す鈍い光に照らし出されている。トラックを運転して働きに出ている二人の息子達が戻らないうちは、晩飯にしなかった。二人より先にお縫に湯に入れというものもないのである。
 待たれていたトラックが表で止ったのは、八時も少しまわった刻限であった。
「かえった!」
 おさやは、片ひざ立ちかけながら声を大きくして庄平に告げた。
「お父はん、車が戻りましたで」
 庄平は、低くおろした電燈の前で、先刻から落付かない眼くばりを表の気配に向けていたのであったが、おさやがそういうと、深々と首をうなずけ、いかにも嬉しそうに声を出さずに笑顔になった。大きく口をあけ、顔を仰向けるようにして笑うのであったが、笑いの輝やいているのは瞳だけで、その口元は泣くようにも見えるのであった。
「只今かえりました」
 オバオール姿の正一が、軍手をぬぎながら土間へ入って来た。
「さ、すぐ湯へおいり」
 正一が湯上りの若々しい胸の上に素っぽこ袷をいいかげんに着て、片足で黒メリンスの兵児帯を蹴りながら腰へからみつけつつ中の間へ出て来た時、後へのこって車を掃除し、車庫の戸じまりまでひとりで終った弟の直二が入って来た。
「かえりました」
「どうする? すぐお湯にいるか?」
「――腹が減ってやりきれん」
 おさやは、ついそこに長まっているのに、弾みのある高声で、
「正ちゃん、正ちゃん」
と呼びたてた。
「はよ御飯にしよ。直はお湯はあとまわしじゃと」
 ポンプのところで手だけ洗った直二が、頸のまわりの手拭をはずして拭きながら、
「わしはここでええ。面倒じゃけ」
 土間から腰かけを引っぱって来て、七輪のおいてある縁側に向って陣どった。正一は、大きくあぐらをかいて、長男らしく畳の上の餉台に向った。
 おさやは、湯気の立つめばる[#「めばる」に傍点]の汁をよそってやりながら、
「どうじゃった、長瀬へもまわれたか?」ときいた。
「ああ。二度往復した」
「十四円じゃろ」
「ああ」
「――あしたは日てえ上田じゃ、電話よこしよった」
「ふーん」
 十九になったばかりの直二は、泥だらけのオバオー
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