に考えず暮しているのであった。
うしろから陽をうけて、紺セルの上被《うわっぱ》りの肩や後毛のさきについたこまかいごみを目立たせながら、おさやが店の土間へ入って来た。店の畳の上にいる坂口の爺さんには別に挨拶もせず、活動的な調子を張って、
「お縫さ、お縫さ」
と奥へ向って呼んだ。
「これ、晩に和えようじゃあるまいか、懸けといてつかあせ」
持って来たちさ[#「ちさ」に傍点]の籠をお縫にわたした。そして、
「どうでござんす。いいところ儲かっちょりますか」
と、坂口の爺さんの蹲っている横に来て腰をおろした。声のなかには、儲かっちゃいますまいが、と真摯な警告の調子もこもっているのであった。永年女手一つで店をまかない、生活の苦労とたたかって来ている悧発な鋭い眼ざしでおさやは坂口の爺さんを見た。
坂口は、乾いた掌で胡麻塩髯の生えた顔を一撫でした。そしておもむろに、
「――こんどは、醤油屋がしっかり儲けよった」
と云った。
「よっぽどつかみよったに違いない」
おさやの、抜目ないあから顔に覚えず誘い出された好奇心が動いた。
「醤油屋た、どの?」
「そこの――醤油屋じゃが……」
どういうわけだか坂口の爺が声をおとしてそう云ったのにつりこまれて、おさやも低い声になって訊きかえした。
「飯田どすか?」
合点をして、
「今度で小一万はたしかに儲けちょる」
おさやは、上被の合わせ目に片手をさし入れてちょっと沈思する顔つきであった。が、それ以上何も云わず、やっとせ、と声に出して店の畳へ上り、襖際によせて置いてある荒れた事務机の前へ座った。その様子を今度は下目で床の中から眺めていた庄平が、
「ヤイ」
喉からの力の失われている声で呼んだ。
「ヤイ……来て」
「何どす? しいどすか?」
「ここがいけん」
「どこがいけません?」
「ここ、ここ」
「あんたもう大分|臥《ね》てじゃけ、ちいと起しましょう、な? 臥てばかりおってもなかなか御苦労なこっちゃけ、のうお父はん」
立って来たお縫も、力をあわせ、女二人がかりで大きな庄平の上体を抱え起して背中に坐椅子をあてがった。
「この布団入れときますか」
「やっぱりその方が楽にあろ」
油単をなおした大紋付の掛布団を丸めて、坐椅子と庄平の背中との間に挾んだ。そうして置いて立とうとするおさやを、庄平は自分の膝を叩くようにしてとめた。
「ここにいて――」
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