間にか、すっかり町を離れて、或る川の傍まで運ばれて来たのを知った。
 河原で一人の男が石を破《わ》っている。
 槌を石に打ち下した。と思うとやや暫く立ってから、カツ! カツ! という音が耳へ来る。
 手元を見ながら音をきくと、ウツカツ! ウツカツ! というようだ。
「ウツカツ! ウツカツ! ウツ……」
 だんだん音が微かになると、目の下には茂った森が現われた。
 絶えず陽気でお喋りな若い葉どもは、お互にぴったり肩をすり合わせ、頭をよせ合って、しきりに早口で何か囁き合ったかと思うと、クックッ、クックッ微笑み始め、やがてさも堪えきれなそうにサアッと分れて大笑いに笑い潰れる。
 と、仲間の一人が、ふざけるような様子をして頭を擡げ、眩しい眼をしばたたきながら、フト自分等の上に来かかる子供を見上げた。
「オヤ、まあ」
 サヤサヤ、サヤサヤ……葉どもは一斉に身をそらせて彼を見る。
「アラ、人間の子よ」
「まあ、あんなものに乗っかって……おかしいわ」
「ほんとにまあ、たったあれんぼっちの子!」
「まあ……」
 口々に囁きながら、行き過ぎる彼を見なおそうとして、ぶつかり合い縺《もつ》れ合い、大騒ぎで身じろぎをする。
 サヤサヤ……サヤサヤ……
 涼しいすがすがしい薫りが六の体のまわりに満ちわたった。
 足の下で山鳩が鳴く。
 カッコー……カッコー……
 しとやかな含み声の閑古鳥の声が、どこからか聞える。
 常春藤《きづた》が木の梢からのび上って見上げようとし、ところどころに咲く白百合は、キラキラ輝きながら手招きをする。
 六はもう、得意と嬉しさで有頂天になってしまった。
 世界中が俺の臣下《けらい》のように畏《かし》こまって並んでいる。
 今こうやって、鳥より楽に、素晴しく空を歩いている俺、たった一人のこの俺!
 スースー……スースー……
 王者になったような心持でいる六をのせて、綱はだんだん山奥へ入って行った。
 景色は次第次第に珍しく、不思議になって来る……
 周囲はますます静かにひそやかになって来る……
 六は急に飛びたくなった。飛びたく。
 あの雲の峯、あの……
 彼は思わず前へのめった。瞬間椅子は重心を失った。
 オミョオミョワラーー――ン……
 天地中が隅から隅まで、一どきに鳴り渡ると感じる間もなく、六の体は太陽の火粉のように、真下の森へ向って落ちて行った。……



底本:「宮本百合子全集 第一巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年4月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第一巻」河出書房
   1951(昭和26)年6月発行
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年1月2日公開
2003年7月5日修正
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