ロールは、押すというほどの力を加えられないでも、自分で軽く動いて行く。
このカーブさえ曲れば、もうお終いだという心の緩みと、労力の費されない気安さとで、下らないお喋りに有頂天になっている者達の胸は、ただ義務的に柄に触れているというに過ぎなかった。
まるで生物《いきもの》のようによく転るロールについて、人々が今、カーブを廻りきろうとしたときである。
突然怯えきった絶叫が、仲間の中から起った。
「アッ! 人! 人!![#「!!」は横1文字、1−8−75]」
ハッとたじろぐ瞬間、抑えてもないロールの柄は彼等の胸から離れた。
コロコロコロ……
一層惰力のついたロールは、
「石! 早く石、石早く突支《つつけ》え!」
と云う叫びがまだ唇を離れないうちに、今の今まで見えていた人の寝姿を押し隠して、陰気に重々しく二三度ゴロッ、ゴロッと揺り返した。
そして、もうそれっきり動く様子は見えなかった。
六
恐ろしい冬が過ぎた。
ほどよい雨と照りが地の底から生気を盛返させて、どこからどこまで美しく蘇返った。
お玉杓子《たまじゃくし》が湧き、ちゃくとり――油虫の成虫――がわやわや云いながら舞いさわぐ下の耕地にはペンペン草や鷺苔《さぎごけ》や、薄紫のしおらしい彼岸花が咲き満ちて、雪解で水嵩の増した川という川は、今までの陰気に引きかえまるで嬉しさで夢中になっているようにみえて来る。
コーコー、コーコー笑いさざめきながら水共が、或るときは岸に溢れ出し、或るときは途方もないところまで馳けこんで大賑やかな河原には小石の隙間から一面に青草が萌え、無邪気な雲雀《ひばり》の雛の囀りが、かご茨や河柳の叢から快く響いて来る。
桑の芽は膨らみ麦は延びて、耕地は追々活気づいて来たけれども、もう耕す畑も海老屋の所有にされてしまったお石は、毎日古着や駄菓子を背負っては、近所の部落へ行商に出かけた。
禰宜様宮田は、あんな不意なことで死んでしまうし、家《うち》の畑は、とうとう鬼婆にとり上げられるし、もううんざり仕切っている彼女は、ただ独り遺っている息子の六を可愛がる気もなくなっていた。
若いときから、彼女が働く原動力になっていた意地も何も、皆どこへか行ってしまって、あんなに祈願をこめても利益を授からない神様にもほとほと愛想をつかしている今、彼女はただ毎日をどうやら生きてさえいればいいだけである。
いろいろな口実を設けて、家屋まで奪われた彼女は、ようよう元納屋にしていたところを住居にして、朝は目が覚めたときに起き食事をすますと荷をかついで出たまま、気が向くまで帰って来ないのが、このごろの習慣になっていたのである。
九つになった六は、母親があってもなくてもまるで同じような生活をしていた。
目を覚したときには、お石はもう大抵留守になっているし、遊び疲れた彼が炉傍でうたたねしてしまう頃までに彼女は帰って来ない方が多い。
学校へも行かず叱りても持たない彼は、彼の年の持つあらゆる美点と欠点のごちゃごちゃに入り混った暮しをして、或るときは大変いい子であり或るときは大変悪い子である六は、貧しい部落中でも貧しい者の子、躾《しつ》けのない子と目されているので、彼の友達になってくれるものはない。
たまにあったとしても、学校で教わって来た字を書いては、
「六ちゃん、おめえこの字知ってる?」
などときかれるのは、たまらなく口惜しい。自分の方でも避けているので、まったく独りぼっちの彼は一日中|裸足《はだし》の足の赴くがままに、山や河を歩きまわっていたのである。
どこへ行っても山は美しい。
面白いもので一杯にはなっているけれども、彼の一番お気に入りなのは、元二人の姉達がいた時分春になるとは松ぼっくりを拾いに来たことのある館《たて》の山である。一吹風が渡るとたくさんなたくさんな松の葉が山のしんからそよぎ出すように、あの一種特別な音をたてて鳴りわたるのを聞きながら、蕗《ふき》の薹《とう》のゾックリ出た草地に足を投げ出して、あたりを見はらすのが、六にとって何よりの楽しみなのである。
「きれえだんなあ……
何ちゅう可愛《めん》げえんだべ、俺ら……」
高い山から眺める下界の景色は、ほんとに綺麗である。そしてほんとに可愛らしい。
何もかもが小さくちょびんとまとまって、行儀よく、ぶつかりもせず離れすぎもしないように並んでいる。
昔々ずうっと大昔、まだ人間が毛むくじゃらで、猫のような尻尾を持っていた時分に――部落の年寄達はきっとこういう言葉を使った。――巨人が退屈まぎれに造ったのだというS山を正面に、それから左右に拡がって次第次第に高く立派になっている山並みに囲まれた盆地のところどころには、緑色をたっぷり含ませた刷毛《はけ》をシュッ、シュッ、シュッと二三度で出
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