ながら、彼女の持っているあらゆる侮蔑を何の隠すとてもなく現わしても、不思議に思う者はない。
 家柄は禰宜様――神主――でも彼はもうからきし埒《らち》がないという意味で、禰宜様宮田という綽名《あだな》がついているのである。
 人中にいると、禰宜様宮田の「俺」はいつもいつも心の奥の方に逃げ込んでしまって、何を考えても云おうとしても決して「俺の考」とか「俺が云ったら」というものは出て来ない。けれども、野良だの、釣だのに出て来て、こういう風に落付くと、彼はようやっと「俺」をとり戻す。
 そして、だんだん心は広々と豊かになって、彼のほんとの命が栄え出すのであった。
 今も長閑《のどか》な心持であたりの様子を眺めているうちに、禰宜様宮田の心は、次第に厚みのある快さで一杯になって来るのを感じた。
 そして、平らかな閑寂なその表面に、折々|雫《しずく》のようにポツリポツリと、家内の者達のことだの、自分のことだのが落ちて来ては、やがてスーと波紋を描いてどこかへ消えて行ってしまう。
 沼で一番の深みだといわれている三本松の下に、これも釣をしているらしい小さい人影を見るともなく見守りながら、意識の端々がほんのりと霞んだような状態に入って行ったのである。
 それからやや暫く立ってから、彼はフトもとの心持に戻った。どのくらい時が過ぎたか分らない。
 禰宜様宮田は、ついうっかりしていた竿を上げてみた。餌ばかりさらわれて、虫けら一匹かかってはいない針が、きまり悪そうに瞬きながら上って来た。
 彼はもう何だか、わざわざ切角こうやって生きている蚯蚓《みみず》の命まで奪って僅かばかりの小魚を釣るにも及ばないような心持になって、草の上に針を投げ出すと、そのまま煙草をふかし始めた。
 さっきまでは居る影さえしなかった鳶《とんび》が、いつの間にかすぐ目の前で五六度|圏《わ》を描いて舞ったかと思うと、サッと傍の葦間へ下りてしまう。
 キ……キッキ……
 微かな声が聞えて来る。
「はて、小鳥でもはあ狙われたけえ……」
 葦叢《あしむら》をのぞき込むようにして膝行《いざり》出た禰宜様宮田の目には、フト遠い、ズーッと遙かな水の上に、何だか奇妙なものがあがいているのが写った。
 鳥でもないし、木片でもない。
「今《えま》時分人でもあんめえし……」
 浮藻に波の影が差しているのだろうと思って見ると、そう見えないこともない。
 が、しかし……
 何だか気になってたまらない彼は、煙管《きせる》を持った手を後で組み、継ぎはぎのチャンチャンの背を丸めて、堤沿いにソロソロと歩き出した。
「オーイ、誰《だんか》来てくんろよ――オーイ」
 近所の桃林で働いていた三人の百姓は、びっくりして仕事の手を止めた。
「オーイ来てくんろよ――沼だぞ――」
「あら、オイ禰宜様の声でねえけえ?」
 彼等が沼地へ馳けつけたときには、真裸体《まっぱだか》の禰宜様宮田が、着物の明いているところじゅうから水が入って、ブクブクとまるで水袋のようになっている若い男を、やっとのことで傍の乾いた草の上まで引きずり上げたところであった。
 背が低くて、力持ちでない禰宜様が助け上げたのが不思議なくらい、若者は縦にも横にも大男である。
 が、もうすっかり弱りきっている。
 心臓の鼓動は微かながら続いているから、生きてはいるのだが、見るも恐ろしいような形相をして絶息している。
 もう一刻の猶予もされない。
 水を吐かせ、暖め摩擦し、そのときそこで出来るだけの手当がほどこされたのである。
 ここいらの百姓などとは身分の違う人と見えて、労働などは思ってみたこともなさそうな体をしている。自分が裸体だなどということはまるで忘れて、水気が一どきに乾こうとする寒さで、歯の根も合わずガタガタ震えながら、それでもひるまない禰宜様宮田は、若者の上に跨《また》がるようにして、
 ウムッ! ウムッ!
と満身の力をこめて擦《こす》っている。
 青ざめた、けれどもどうあってもこの男を生かさずにはおかないぞというような、堅い決心を浮べた彼の顔は、平常《ふだん》に似合わずしっかりとして見える。
 心から調子の揃った四人の手は、やがてだんだん若者の生気を取り戻し始めた。
 呼吸が浅く始まる。
 紫色だった爪に僅かの赤味がさして、手足にぬくもりが出る。
 おいおい知覚されて来た刺戟によってピリピリと瞼や唇が顫動《せんどう》する。
 やがて、ちょうど深い眠りから、今薄々と覚めようとする人のように、二三度唇をモグモグさせ、手足を動かすかと思うと、瞬《まばた》きもしないで見守っていた禰宜様宮田の、その眼の下には、今、辛うじて命をとりとめた若者のみずみずしい眼が、喜びの囁《ささや》きのうちに見開かれた。
 この瞬間!
 禰宜様宮田は、自分の体の中で何かしら大した幅のあるもの
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