きれ返ったような調子で云う。
 自分が鬼婆鬼婆といわれているということも、その訳も彼女はちゃんと知っている。
 けれどもちっとも気にならない。それどころか却ってこそこそと鬼婆がどうしたこうしたと噂されるのを聞くと、今までに倍した元気が湧いて来るのである。
 どんな悪口でも何でもつまりは、ねたみ半分に云うのだ。
 自分のことを眼の敵《かたき》にして、手の上げ下しにろくなことを云わない津村にしたところで、腹の中は見え透いている。今までこそ、呉服は津村に限るとまで云われて、町随一の老舗《しにせ》で通って来たものが、このごろではうち[#「うち」に傍点]にすっかり蹴落されて、目に見えて落ちて行く。その当人になってみれば、嘘にもお世辞にもよくは思えないのも無理はない。それがこわくて何ができよう。
 先だって三綱橋のお祝いのときにも、佐渡《さわたり》の御隠居があんなにわいわい云ったって、やはり寄附金が少なかったから、見たことか、ああやって私よりは下座へ据えられて、夜のお振舞いにだって呼ばれはしない。
 町会議員を息子に持っていると威張ったところで、いざというときにはどうせ、私の敵じゃあないわい。
 今の世じゃあ、金さえあればどんな無理も通せるというもの、現に佐渡り[#「佐渡り」はママ]の議員だって、買ったも同様の札で当ったのだというじゃあないか。
 ものは方便、金がもの云う時世に生れて、変におかたいことを云うのは、馬鹿の骨頂《こっちょう》だ。
 何とか彼とか理窟をつけて、溜めたくないようなふりをしている者のお仲間入りをしていられるものか。何と云われたってかまわずドシドシ溜れば、それでいいのだ。ああそれでいいのだとも……。
 どんな僅かの機会でも、決して見逃すことのない彼女は、幾分かの利益が得られそうだとなると、どんな手段でも策略でも遠慮会釈なくめぐらして、どうにでもしまいには勝つ。
 まるで思いがけないような難題を考えたり、云いがかりを作ることは、彼女の得意とするところであり、従って何よりの武器であった。それ等の思いつきを、彼女は日頃信心する妙法様の御霊験《おしめし》と云っていたのである。
 果樹園には、この土地で育ち得るすべての種類の果樹が栽培されていた。
 そして、収穫時が来ると、お初穂《はつ》をどれも一箇《ひとつ》ずつ、妙法様と御先祖にお供えした後は、皆売り出すのだから、今
前へ 次へ
全38ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング