三十になるかならないの彼は、ようよう家族を支えて行くだけの俸給ほか貰っていなかった。従って、二人の子供達と老母とを抱いて、彼等の生活は、どこの隅にも余裕というべきものを見出すことはできない。白襯衣《ホワイトシャーツ》一枚になったWが、西日の差しこむ温室のような事務室で、よき良人らしく、忠実な父親らしく額に汗している間に、妻のマーガレットは、また彼に劣らぬ真剣さで何くれとなく家事のために奔走する。彼等にとって、贅沢《ぜいたく》な流行品の存在が、何ら関心の材料にもならなかった如くに、あらゆる空想というものが、生活から駆逐されていた。結局実現も出来ない空想に心を奪われてボカンとして過す五分が、何を産むだろう? 彼等に望外の野心もなかった。激しい口論を起すべき衝突もまたない。単調な田舎の圏境が、いつか人の心に与える不思議な催眠で、光沢のない水色のような生活が、彼等の結婚後三年の月日を満たして今日に至ったのである。
 Wが、安い月給取りであるということ、彼の妻は、また彼にふさわしいよき主婦であるということは、そこに何の華やかさもない代りに、彼には平和な信頼を与えた。彼は毎月定まった金額を彼女の掌《て》に渡す。何の不安も、焦燥も感ぜずにその金は彼女の配慮で日常の生活を満たして行く。
 天気の晴々と輝きわたった夏などに、昼飯に戻って来た彼は、よく子供達に取繞《とりま》かれながら裏の草原で洗濯物を乾しているマーガレットを見出すことがあった。
 金色の日光がキラキラと金粉を撒くように降り注ぐ明るみの中で、嬉戯《きぎ》する子供等と、陽気な高声で喋りながら、白く肥った腕を素早く動かして、張りわたした綱に濡れた布を吊る彼女の姿は、どんなに彼の心を悦ばせたことだろう。一足毎に大きなかごを傍へ傍へと引寄せながら、上下する体の運動につれて、愉快な小唄を口誦む彼女。跼《しゃが》む機勢《はずみ》に落ちかかる後れ毛を、さもうるさそうに手の甲で掻き上げながら、ちょっと頭をあげて大きく息をする彼女。そこには若い母親の豊饒な愛が、咽《む》せるほど芳しく漂っている。見馴れた光景でありながら、その家庭的な情景に逢うと、彼は湧き上る感謝を圧えることができなかった。よき家である。よき妻や子等である。わざと木影に隠れて、我れともなく恍惚とした父親を真先に見つけた子供達が、弾む小毬《こまり》のように頸や胸元に跳びつく頃
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