ないという単独な情でもなければ、偕《とも》に死ぬべきであるという倫理的な判断でもない。まして、この瞬間に、生と死とを選択して、英雄的最後を選ぼうとするような心はない。ただ、彼女の全霊が、真赤な火の玉のようになって燃え上った生の執着の偉大なる共鳴である。二つの箇体が、一つの生命になっていた。一つの生命の前にあらゆる空間が絶していた。二つの体躯を貫通して反響があったばかりである。彼の心には、死という文字の存在を許す、いかほど些細な間隙もなかった。あくまでも生である。何といったって生きてやるぞ! という真っ暗な絶叫である。死んでも生きて見せるぞ! という執念である。ひたすらの執念である。あの寸刻前の恍惚は? あの幸福な夢幻は? 運命は、運命は……。そんなことがあって堪るもんか。彼は、生命全部の緊張をただ一点に集中して“No! sir”と叫んだのである。何に? もちろん死である。体中でふるえながら、二人の周囲を駈けまわって、叫んだり、呟いたり、躓《つまず》いたりしていた猫背の男は、Wが“No! sir”と叫んで、マージーの上に重るように地上に横ったのを見るや否や、殺されるような悲鳴を挙げて、走り出した。なぜとも分らずこちらへ向って確実に猛進して来る列車の、一つ目の化物のような前面を目がけて馳け出したのである。が、二三間行くか行かぬに、彼の聾《ろう》した耳を劈《つんざ》くようにシュワッ! と空気を截断して、機関車の丸い頭部が擦れ違った。と同時に、彼は轟々《ごうごう》たる車輪の響に混って何ともいえない人間の叫喚が、あたりの空気を刺しとおして空の彼方まで響きわたったような気がした。彼は急に双脚の力を失った。地面がズルッと足の下で滑った。彼は髭の疎に生えた口をパッと開くと、あらいざらいの生命を一時《いちどき》に吸いこむように息を窒《つ》めて、傍の茂みの中に転り込んだ。
一分……二分……三分……。
彼はそろそろと両膝を突いて、草の中から起き上った。そして怖じた兎のように眼を剥《む》いて恐る恐る周囲を見まわした。
月が照っている。窓々の硝子は光り、樹々が眠っている。しんかんとした夜の空気……。
「これが?」
彼は肩を窄めて、
「これが? これが死? これが? これが?」
痩せた顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6、440−11]《こめかみ》をヒクヒクと痙攣《けいれん》させ
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