気が違っていた。ましてこの場合、軌道の内側に倒れたマージーを、逆に倒して、足一本の犠牲で、彼女の生命を救おうとするだけの周密な考慮をめぐらす頭脳はなかった。すべての魂が、奈落へ逆落しになっていた。すべての意志が、流星のように顛落していた。統御を失た本能の、眼のない、大きな真黒い頭ばかりが、無二無三に方向の定まらない動乱を起したのである。
一旦右側を下にして倒れたマージーは、やがて必死《デスペレート》な歯軋りと一緒に上半身で飛び上った。
「駄目だ! 駄目だ! もう!」
彼女はいきなり咆吼とも悲鳴ともつかない叫びを挙げながら、獣のような勢で夢中になった良人の胸元に跳びついた。
「W! 駄目! もうだめ、早く逃げて、よ! 子供が、アー、駄目よ! 駄目よ! W!![#「!!」は横1文字、1−8−75]」
十|呎《フィート》ほどの距離まで接近して来た列車は、ギラつく前燈《ヘッドライト》を一面に軌道の上に投げていた。その、蒼白い月光と、赤い焔のような光線の混乱し錯綜した、斑《ぶち》まだらな明りのうちで、我を失ったWは、自分の魂にピッタリ貼りついたように近々と髪を乱し、歯をギリギリと噛みながら、瀕死の鳥が羽摶く通りに身をもがくマーガレットの、恐怖と哀願と、そして極度の憤怒にかきむしられたような顔を眺めた。それを見ると、彼は、何でもかでも、マーガレットが、彼女の全生命で感じている、そのことを、きっかりと一つの間違いもなく自分の心に感じているのを感じた。今死のうとする眼と眼が、かっちりと火花を散らして結び合った。
「死ぬもんか! 馬鹿!」
どうして、ここで死ななければならないのか? どうして死から逃れるか? そんなことが問題ではなかった。ただ反抗である。彼女の悪霊のようなもの凄い相貌から、彼の魂へと、裸形《はだか》で踊り込む生の、飢渇のような欲求である。彼女を馳り立てるが故に、彼女も馳り立てずには置かない本能の爆発である。死んで堪るもんか、死ぬもんか、何だ! 馬鹿、畜生! 悪魔!
Wはいきなり拳を振って弾機《ばね》のように空中へ飛び上った。と同時に、叩きつけるように、地面へ落ちて、知覚を失ったマージーの体に、喰いつくように掴みかかると、決然と、あたかも宣告を下すように、
“No! sir”
と叫んだ。
この瞬間、彼の心を満したものは、決して、愛する妻を独り死なせるに堪え
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