耳鳴りのため、話は半分位ほか、私の頭に入らなかった。胸には数多の注射のあとがあった、どんなに苦しかったんだろう。
 まああの小さな体で居て、情ない。
 私は袴をぬいで帯を結び足元に女中は泣き伏して自分がうっかりして居たばっかりにとんでもない事になって仕舞って何とも申しわけがございません、と云ったけれ共、私はそれをとがめる気も怒る気もしなかった。それほど私の心は悲しみに満ちて居た。
 私が家に帰ったのは三時半であった。
 何をしていいのか私には分らない様になって仕舞ったので只妹の枕元に座って小さな手を握って喉の奥に痰がからまってぜえぜえ云う音をきいたり苦しいためか身もだえする手を押えたり気が遠くなるほど苦しい刻一刻を過した。
 注射も今は只束の間の命を延ばして行くはかない仕事になって息は益々苦しく小さい眼はすべての望を失った色に輝いて来た。
 涙も出ない、声も出ない。
 私の魂はこのかすかな生を漸う保って居る哀れな妹の上にのみ宿って供に呼吸し共に喘いで居る。
 私の手の中に刻々に冷えまさる小さい五本の指よ、神様!
 私はたまらなくなった。
 酔った様に部屋を出た。行く処もない。私は恐ろしさに震きながらも私は又元の悲しみの世界に引きもどされた。眼にはいかなる力を以ても争う事の出来ない絶大の権利をあくまで冷静に利用する神の影がさして、唇は開き、生の焔は今消ゆるかとばかりかすかにゆらめいて居る。
 私はあまりの事にその手を取る事はどうしても出来なかった。破けそうな胸を両手で押えて氷って行く様な気持で消えて行く生を見守った。立ったまま。
 まぶたは優しい母親の指で静かになで下げられ口は長年仕えた女の手で差《ささ》えられて居る。多くの女達は冷たい幼児の手を取って自分の頬にすりつけながら声をあげて泣いて居る。啜り泣きの声と吐息の満ちた中に私は只化石した様に立って居る。
[#ここから1字下げ]
「何か奇蹟が表われる事だろう。
 残されて歎く両親のため同胞のために。
[#ここで字下げ終わり]
 奇蹟も表われなかった。
 遠い潮鳴りの様に聞いた啜りなきの声もそれをきき分けて自分の立って居るのを何処だと知った時――
 涙は新に頬を走り下り、歎かいは新に蘇った力をもって、私の心をかきむしる。
 幼ない五つのたった一人の私の妹よ、
 何処へ逝ったの。
 美くしく優しく長《とこ》しなえにもだして横わる小さい姿の――
 おお私のたった一人の――たった一人の私の妹よ――

        (三)[#「(三)」は縦中横]

 糸蝋はみやびやかに打ち笑む。
 古金襴の袋刀は黒髪の枕上に小さく美くしい魂を守ってまたたく。
 元禄踊りの絵屏風をさかしまに悲しく立て廻した中にしなよく友禅縮緬がふんわりと妹の身を被うて居る。
[#ここから1字下げ]
「常日頃から着たい着たいってねえ云って居た友禅なのよ華ちゃん、今着て居るのが――分って?
[#ここで字下げ終わり]
 いらえもなく初秋の夜の最中に糸蝋のかげに臥す幼児の姿ほど美くしいものはない。悲しいものはない。
 私はその傍に静かに思いにふけりながら座して居る。
 驚と悲しみに乱された私の心は漸く今少し落ついて来た。
 たった五年で――世に出てから五度ほかお正月に会わないで逝った幼児の事がしみじみと心に浮ぶ。
 世の中の辛い義理も、賤ましい人の心の裏面もまた生活と云う事についてのつらさを一つも味わわずに逝ったのは幸福とも云える事であろう。
 尚それよりも幸福なのは偉大な力をもって人に迫る「死」そのものを知らないことである。
 病む人が己に死の影が刻々と迫りつつあると知った時はどんな気持だろう。実に「生」を求める激しい欲望に満ち満ちて居る。
 過去の追憶は矢の様に心をかすめて次々にと現われる嬉しい悲しい思い出はいかほどこの世を去りがたくさせる事だろう。
 或る苦痛を感じて死の来るべき事を知った心も我々が思う事は出来ない複雑な物哀れなものである。
 厳かな死の手に、かすかに残った生のはげしく争う辛いはかない努力もしず、すなおにスンなりとその手に抱かれた――抱かれる事の出来たのは動かせない幸福な事である。
 悲しい死によって美化された幼児の顔はこの上なく尊げなものである。
 白蝋の様な頬の色、思い深い紅に閉された小さい唇の上に表れた死の姿は実に不可思議なものに見える。今まじまじと目の前に表れ出た頬のない美くしさ、冷やかさを持って居る死は私の心にまた謎の種をおろして行く。今まで仕様事なしに私の貧しい知識の知れる限りで死の事を考えて居た心に又一つ新らしい考える気持を落して行く。
 死に対する新たなるしかも大変強い恐れとその美化する力の大なるために起る不思議な危い魅力とがかたまって一つの私には解けない謎の様なものになって来る。生みの力と絶えず争いつづける死の偉大な意味、その心などは人間にはきっぱり分りきって仕舞うものではあるまい。少くとも今の私には死の意味をさとる――その気持を思う事は出来ないにきまって居る。
 出来ないと知りつつも私の今の気持ではそれを思わずには居られない。
 只一人の妹の冷やかな身を守って静かに死を思う時冷静に感情を保つ事は私には出来ない。
 悲しさが湧く、涙がこぼれる、終には、自らの身の上にまでその事を考え及ぼして、自分が亡き後の人々の歎き、墓の形までを想像して泣く。
 皆、私の年のさせる事である。
 今日から三十年、四十年と、時がすぎて、私の髪が白くなったその時は一滴の涙もなくその事を想う事が出来るかもしれない。けれ共そうある事を希って居るのではない、私は今の此の力に満ちた蛋白石の様な心の輝きが失せて「死」の力も「生の力」の偉大さをも感じないほど疲れた鈍い、哀れな感情になる事を思うのは、いかほど辛い事だろう。
 どれほど、白髪が、私の頭を渦巻こうとも額にしわが数多く寄ろうとも、只、希うのは、健に、敏い感情のみを保ちたいと云う事である。
 今私が、妹の死を悲しんで、糸蝋の淡い灯影につつましく物を思いながら幼い魂を守って居る。
 けれ共幾年かの後は私が守られる人となるのである。その事あるを今日から思いまたもう遠い遠い過ぎた日からその事あるを思って、私の体はよし消滅しても私の思想ばかりは不朽に生をうけ得る様に日々務めて、尊い不朽の生を得る事の出来るだけの思想を築こうとして居るのである。
 私の年頃、十代で若しくは二十代で死ぬのはまことにつらい事だし五十位の人も又激しい生の愛着を持って居るのだ。実現されない希望を多く胸に抱いていくばくかの努力と勤勉の後、生れて居る現実を楽しんで居る。私共は胸に多くの希望があるがために死ぬのはまことにつらい。どれほど美くしく、どれほど見事に自分の希望が達せられるかと思う心が一時でも生にある事を望ませる。
 五十六十ともなれば今までの仕事の仕あげをする一種の喜びに満ちて居る。
 長年の苦労によって築きあげられた自分の事業に丁寧に親切なみがきをかけていよいよ尊くなりまさって行く時に死の手にその身をゆだねる事を誰が喜ぼうぞ。いずれの時に於ても、死を知らぬ幼児のほか思いなく自分に迫り来る死を迎える事は出来ないのである。
 神仏の力によって、生死の境を超越した人でないかぎりは必ずそうあるべき事なのである。何処に居て誰の手に寄ろうと死は一つ死で有ろうけれ共、私は、我が幼児が親同胞にとりかこまれて、何物にもたとえ様のない愛の手ざわりと、啜り泣きの裡に逝ったと云う事はさぞその魂も安らけくあっただろうと想う。
 誰一人額に手をふれる人もやさしい涙にその今はの床をうるおすものもなくて逝く魂ほど淋しい不安なものはあるまい。
 我がために涙をながして呉れる人が此の世に只一人でもあるうちは私は必ず幸福であろう、それを今私はめぐみの深い二親も同胞も数多い友達も血縁の者もある。
 私の囲りには常にめぐみと友愛と骨肉のいかなる力も引き割く事の出来ない愛情の連鎖がめぐって居るではないか。
 実に感謝すべき事である。
 夢の如く生れて音もなく消え去った私の妹の短かい、何の足跡も残さない一生涯を見るにつけ、知らず知らずの間に踏みつけて行く生の足蹟がやがて亡き後にいかばかり大いなる力になって現われるかと云う事を思う。
 育ちきれずに逝った児の力をもあわせて、二人前の力強い消えない足蹟を人の世の中に――汚されぬ高い処にしっかりと遺さなければならない事を思わされる。

        (四)[#「(四)」は縦中横]

 思うさえ胸のつぶれる様な納棺の日である。
 私はその席に連る事を恐れた。
 悲しさのために私は恐れたのである。
 二つ三つ隔った処に私はだまって壁を見て座って居た。
 私を呼びに来る人を心待ちに待ちながらも行きかねた気持であった。
 物凄い形に引きしまった痛ましい感情が私の胸に湧き返って座っても居られない様なさりとて足軽くあちらこちらとさ迷えもしない身をたよりなくポツントはかなく咲くはちすのうす紫に目をひかれて居た。
 激しく疲れたと云えば云えるし気の抜けた様なと云えばそうも云える。
 極度の亢奮の後に来る不思議に沈んだ気持が私の体のどこかにやがて命も取って仕舞いそうな大穴をあけた様に感じてさえ居た。
 今来るか――今来るか、悲しい黒装束の使者を涙ながらに待ちうけるその刻々の私の心の悲しさ――情なさ、肉親の妹の死は私にどれほどの悲しみを教えて呉れた事だろう。
 よしそれが私の身に取って必ず受けなければならない尊い教えであったとしても、一時も一息吐く間も後《おそ》かれと希って居たのに、――けれ共後かれ早かれ一度は来なければならない事が只時を早めて来たと云うばかりであろう。
 死を司る神に取っては、我が妹の死が十年早くとも又よしおそくとも何の差も感じないに違いない。
 それに涙が有ろうが有るまいが死の司は只冷然とそのとぎすました鎌で生の力と争いつつ片はじからなぎ立てるのみが彼の仕事で又楽しい事なのであろう。
 到々私は呼ばれた。
 引きたてられる罪人の様に苦しく苦しく見たくもなくて見ずには居られないものに向って進んだ。
 私がその部屋の入口に立った時、美くしい友禅の影はなくて檜の白木香り高い裡に静かに親属の手によって納められ、身の囲りにはみどりの茶が入れられて居た。
 姉らしい憂いに満ちた優しい気持で、私は先に欲しがって居てやらなかった西京人形と小さな玩具を胸とも思われる所に置いた。
 欲しがって居たのにやらなかった、私のその時の行いをどれほど今となって悔いて居るだろう。
 けれ共、甲斐のない事になって仕舞ったのである。
 小さい飯事《ままごと》道具を一そろいそれも人形のわきに納められた。娘にならずに逝った幼児は大きく育って世に出た時用うべき七輪を「かまど」を「まな板」をその手に取るにふさわしいほどささやかな形にしてはてしもなく長い旅路に持って行く。
 五つの髪の厚い乙女が青白い体に友禅の五彩まばゆい晴衣をまとうて眠る胸に同じ様な人形と可愛い飯事道具の置かれた様を思うさえ涙ははてしなくも流れるのである。
 飯事を忘れかぬる優しい心根よ。
 一人行く旅路の友と人形を抱くしおらしさよ。我妹、雪白の祭壇の上に潔く安置された柩の裡にあどけないすべての微笑も、涙も、喜びも、悲しみも皆納められたのであろうか。永久に? 返る事なく?
 只一度の微笑みなり一滴の涙なりを只一度とのこされた姉は希うのである。
 思い深く沈んだ夜は私の吐く息、引く息毎に育って糸蝋のかげの我心の奥深くゆらめくのも今日で二夜とはなった。
 明けの夜は名のみを止めた御霊代を守って同じ夜の色に包まれるのであろう。

        (五)[#「(五)」は縦中横]

 白みそめる頃からの小雨がまだ止もうともしずに朝明の静けさの中に降って居る。
 眠りの不足なのと心に深く喰い込で居る悲しさのために私の顔は青く眼が赤くはれ上って居た。
 雨のしとしとと降る裡を今に私共はこの妹を静かに安らえるために永久の臥床なる青山に連れて居かなければならない。黒い紋附
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