悲しめる心
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)玩具《おもちゃ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)段々|彼方《あっ》ちへ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あの手[#「手」に「(ママ)」の注記]
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          我が妹の 亡き御霊の 御前に

 只一人の妹に先立たれた姉の心はその両親にも勝るほど悲しいものである。
 手を引いてやるものもない路を幼い身ではてしなく長い旅路についた妹の身を思えば涙は自ずと頬を下るのである。
 今私の手元に残るものとては白木の御霊代に書かれた其名と夕べ夕べに被われた夜のものと小さい着物と少しばかり――それもこわれかかった玩具《おもちゃ》ばかりである。
 柩を送ってから十三日静かな夜の最中に此の短かいながら私には堪えられないほどの悲しみの生んだ文を書き上げた。
 これを私は私のどこかの身にそって居る我が妹の魂に捧げる。
 仕立て上げて手も通さずにある赤い着物を見るにつけ桃色の小夜着を見るにつけて歎く姉の心をせめて万が一なりと知って呉れたら切ない思い出にふける時のまぼろしになり夢になり只一言でも私のこの沈み勝な心を軽く優しくあの手[#「手」に「(ママ)」の注記]さな手で撫でても呉れる事だろう。
 あの細い腕を私の首に巻いて自分の胸にあの時の様に抱きしめても呉れるだろう。
 はかないその日のうれしさを今か今かと涙ながらに待ちながら――
  大正三年九月二十六日
[#地から2字上げ]こよなく尊き 宝失える 哀れなる姉
  小霧降り虫声わびて
    我が心悲しめる
      夜の最中

        (一)[#「(一)」は縦中横]

 私は丁度その頃かなりの大病をした後だったので福島の祖母の家へ行って居た。
 貧しいそいで居て働く事のきらいな眠った様なその村の単調な生活に少しあきて来かかった十日目の夜思いがけず東京から妹が悪いと云う電報を得た。
 ふだん丈夫な児の事ではあるし前々日に出した手紙に一言も病気については云ってないので祖母はどうしても信じなかった。その二日ほど前から女中が病気で実家に行って居たので私がなりかわって水仕事やふき掃除をして最初の日に二箇所の傷を作った。
 働くのが辛いからそう云っちやって電報を打つ様にさせたんだろうなどと祖母が云ったりした。
 もう三日ほどしたらと思って居たのを急に早めて翌日の一番で立つ事にした。
[#ここから1字下げ]
「お前が行ったって死ぬものははあ死ぬべーっちぇ。
[#ここで字下げ終わり]
 いろいろに引きとめるのをきかないで私は手廻りのものを片づけたり、ぬいだまんま衣桁になんかかけて置いた浴衣をソソクサとたたんだりした。
 たえず心をおそって来る静かな不安と恐れとがどんな事でも落ついてする事の出来ない気持にさせた。
 眼の裏が熱い様で居て涙もこぼれず動悸ばっかりがいつも何かに動かされた時と同じに速くハッキリと打って声はすっかりかすれた様になって仕舞った。
 指の先まで鼓動が伝わって来る様で旅費のお札をくる時意くじなくブルブルとした。
 今頃私が立つ様になろうとは思って居なかった祖母は私に下さるお金をくずしにすぐそばの郵便局まで行って下すった。
 四角い電燈の様なもののささやかな灯影が淋しい露のじめじめした里道をゆれて行くのを見ると今更やるせない気持になって口の大きい気の強い小さい妹の姿を思いうかべながら大きな炉の火をのろのろとなおしたりして居た。
 九時頃だったけれ共もう寝ていくら呼んでも駄目だったと祖母は行き損をして又元の形で帰っていらしった。
 家の病人の悪いと云う事で旅先から帰ると云うのは私にとっては今度が初めてで口に云い表わせないワクワクした気持がそう云う事に経験のない私の心を目茶目茶にかき廻した。どうぞして気を鎮めたいものだと思って欲しくもない枝豆をポチポチ食べながら今度の病気の原因を話し合ったりした。不断から食の強い児で年や体のわりに大食した上に時々は見っともない様な内所事をして食べるので私が来る前頃胃拡張になって居た。胃から来た脳膜炎だろうと云うのが皆の一致した想像だった。
 若し実際脳膜炎だとすればどうぞ死んで呉れる様にと私は願って居た。
 自分の妹を死ぬ様になどと云うのはいかにも惨酷な様に聞えるけれ共たった一人の妹を愛する心は白痴の恥かしい姿を生きた屍にさらして悲しい目を見せるよりはとその死を願うのであった。
 心はせかせかして足取りや姿は重く止めどなくあっちこっち歩き廻った、祖母もあんまりぞっとしない様な顔をしてだまって明るくない電気のまどろんだ様な光線をあびて眼をしばたたいて居た。
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「兄弟達にも可愛がられないで不運
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