事である。
 斯うやって書くのは長い年月が立った後もなおその時の気持も失いたくないためでは無かろうか。
 斯う云う書いたもの、――文字に現わされたものが無くても自分の生のある限りはその時の心を失い度ないと希う。
 けれ共、時と云う偉大なもの――人間より数等力強いものに司[#「司」に「(ママ)」の注記]配されなければならない私共は、忘れまいとしても時がその信じ切った力で忘れさせて仕舞うだろう。
 情なくも時の力で忘れた時も尚その文字を見たならその時の気持に返れるだろうと私はこれを書くのだろう。
 何かしら只に置かれない気持が私にこれを書かせる。
 私が年老いて心持も頭も疲れた時、尚十幾つか若くて私の世話もして呉れ、慰めても呉れ力強い相談相手になって呉れる妹が幼くてなくなった事を思えばどんな気持になるだろう。
 私はただ母の手に抱かれその死を悲しむ親属の啜り泣きの裡にこの世を去る事の出来たと云う事ばかりを幸福だったと云うのである。



底本:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年12月25日初版
   1986(昭和61)年3月20日第5刷
初出:「宮本百合子全集 第二十九巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年12月25日初版
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2008年9月25日作成
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