――兎に角両国まででも行って見ようじゃありませんか。日がえりで海見て来るのもわるくないなあ」
早速立って着物を着換え始めた。藍子は窓枠に腰かけ、彼が兵児帯《へこおび》を前で結び、それをぐるりと後へ廻す、気忙《きぜわ》しそうな様子を眺めた。
「そんなこと云って、大蔵省いいんですか」
「大丈夫です。不時収入があるんですから――……尤も私のはいつだって不時収入ですが……」
尾世川は、しまってあるステッキをわざわざ戸棚から出し、それを腕にかけて外へ出た。
駅前の広場で、撒水夫がタッタッタッ車を乱暴に引き廻して水を撒いている。それをよけ、構内へ入ると俄に目先が暗いように感じられた。その午後はそんないい天気であった。
旅客の姿、赤帽の赤い帽子、粗末な停車場なのが却って藍子の旅心を誘った。
「どうします?」
尾世川がバスケットを取って戻って来た。
「――このまんま帰っちゃうのも惜しいようだな」
二人は列車発着表の前へ立った。
「――成田はどうです?」
「そんなとこ役者がお詣りするところですよ。……稲毛なら近いには近いけど……」
「いいじゃないですの!」
尾世川は直ぐ表を見るのを止めてしまって云った。
「稲毛にしましょう。――それともおいやですか」
日がえり出来る処となると陳腐な場所しかなく、彼等は稲毛に決め、そこ迄二等の切符を買った。
「では……と。まだ二十分もありますね」
尾世川は売店に行き、いつもの朝日ではなく、今日は金口のアルマを買った。彼は藍子のかけている待合室のベンチの腕木にちょっと斜かいに腰かけ、片肱にステッキをかけ、派手な箱から一本その金口をぬき、さも旅立ちの前らしい面持ちで四辺を眺めながら火をつけた。
尾世川は数日前にやっと、不二子を九州の夫のところへ向けて立たせたばかりであった。不二子に限らず、女と生活している間、彼は暮しに追われて、大森までも遊山に出かける余裕がなかった。生活費の心配がなければ、藍子が見晴し亭で会ったいねのように、ただ彼女に会い可愛がる為ばかりにでも、彼は金を使わなければならない。まして、不二子は、親戚が同じ東京にあった。その中で彼と一月も暮したのだから、尾世川は夜の散歩もゆっくり出来ない。さすがの彼も、一息新鮮で闊《ひろ》い空気が欲しい生活をして来たのであった。
今こそ、尾世川は汽車の窓からその空気を完全に吸い込んでいる風であった。
彼は眼を放たず窓外に飛び行く田舎の景色を眺め、
「いいですなあ! 天気がいいから実に素敵だ」
何度もそう云った。
「あ、見ましたか? 水車がありましたよ、やっぱり今でも田舎では水車が廻っているんですね」
平凡な田舎の景色と、横の空いた座席に投げ出されているアルマの箱と、尾世川自身の声の中に何かつつましき祝祭が燦《かがや》いてい、藍子も軽やかな心持であった。
葦が青々茂っている。その川の上に鉄橋が見える。列車が轟然とその鉄橋をくぐりぬけた。
「汽車は鉄橋わたるなり」
白い汽車の煙と、轟音と、稚い唱歌の節が五月の青空に浮んで、消えて、再びレールが車輪の下で鳴った。
稲毛の停車場から海岸まで彼等は田舎道を歩いた。余り人通りもなかった。二つの影が落ちる。道は白く乾いて右手に麦畑がある。尾世川は麦の葉をとって鳴らそうとした。うまく鳴らなかった。
「葉っぱじゃない茎を吹くんじゃないんですか」
「いや、確に葉っぱが鳴ったと思うんですがね」
浅くひろがった松林があり、樹の間に掛茶屋が見えた。その彼方に海が光った。
藍子は、額にかざして日をよけていた雑誌の丸めたのを振りながら、ずんずん先へ立って砂浜へ出て行った。
遠浅ののんびりした沖に帆かけ船が数艘出ている。それ等は殆ど動かず水平線上に並んでいた。
「静かな海だなあ」
「……もっと波の高い海岸の方が勇ましくてようござんすね」
「然し、こりゃいかにも潮干によさそうなところですな。――その辺掘ったら蜆《しじみ》がいるんじゃないですか」
「どれ――ちょっと拝借」
藍子は、脱いだ帽子をかぶせて突いていた尾世川のステッキで、波打際の砂を掘りかえした。
「こんなところ……誰かとっちゃっただろうな」
下駄と足袋をぬぎすて、藍子は踝《くるぶし》とひたひたのところまで入って行った。
「一つもとれないなんて癪《しゃく》だ……やっとこら! と」
勝気らしくステッキをぐっと倒して深く砂を掘り起した拍子に、力が余り、ステッキの先で強く海水を叩きつけた。飛沫が容赦なく藍子のかがんでいる顔や前髪にかかった。
「はっはっはっ、こりゃ愉快だ」
「生意気にこんな海でも塩っからい」
手の甲で頬っぺたを拭き、後毛を風に吹かせながら藍子は笑い笑い戻って来た。
「道具がなけりゃ駄目ですよ。あ、あります、あります、ほらあの茶屋に札が出ていたのを知らなかった」
その道具は然しもう借りず、彼等は砂に腰を下し、次第に暮れかかる海を眺めた。
空の中頃に二かたまり、大きく雲が現れた。その雲に西日が遮られ、屈曲した強い光線が海面に落ちた。先刻から吹き始めた風を孕《はら》んで、沖にいた帆船が或る距離を保ちながら帰って来た。丁度その塊雲の下と思われる地点へさしかかると、急に船は暗い紅色の帆をあげて走って来るように見えた。それは真先ので、次の船の帆は、オリーヴ色に変色した。最後に来る一つは濡れて光る鼠色の布地を帆に張りあげているようだ。
他に船はない。
その三艘だけが、雲のために黝《くろず》み始めた海上を、暗紅色の帆、オリーヴ色の帆、濡れた鼠の帆と連なって、進行して行く。
それ等が始め色が変ったと同じ順序で元のような普通の帆の色になったのは余程行ってからであった。
尾世川と藍子とは、最後の鼠色の船が、先ず船首の端から明るみ、帆の裾、中頃ぐらい、段々遂に張った帆の端が真白になってしまう迄、瞳を凝《こら》し見守った。
「……変だなあ……」
藍子が、眼をしぼしぼさせながら、若々しい驚きを面に現して云った。
「……何だか目が当にならないみたいでしょう? ああやって行くところを見れば、ただの漁師船に違いないけれど」
「ふむ。私も始めてです――幽霊船の話も嘘だとばかりは云えませんね。あれも紅い帆ですな」
その云い方がおかしいと云う風に藍子がくすりと笑った。
松林をぬけて、彼等は清遊館の方へ歩き出した。
底本:「宮本百合子全集 第三巻」新日本出版社
1979(昭和54)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第三巻」河出書房
1952(昭和27)年2月発行
初出:「文芸春秋」
1927(昭和2)年10月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年9月25日作成
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