風であった。
 彼は眼を放たず窓外に飛び行く田舎の景色を眺め、
「いいですなあ! 天気がいいから実に素敵だ」
 何度もそう云った。
「あ、見ましたか? 水車がありましたよ、やっぱり今でも田舎では水車が廻っているんですね」
 平凡な田舎の景色と、横の空いた座席に投げ出されているアルマの箱と、尾世川自身の声の中に何かつつましき祝祭が燦《かがや》いてい、藍子も軽やかな心持であった。
 葦が青々茂っている。その川の上に鉄橋が見える。列車が轟然とその鉄橋をくぐりぬけた。
「汽車は鉄橋わたるなり」
 白い汽車の煙と、轟音と、稚い唱歌の節が五月の青空に浮んで、消えて、再びレールが車輪の下で鳴った。
 稲毛の停車場から海岸まで彼等は田舎道を歩いた。余り人通りもなかった。二つの影が落ちる。道は白く乾いて右手に麦畑がある。尾世川は麦の葉をとって鳴らそうとした。うまく鳴らなかった。
「葉っぱじゃない茎を吹くんじゃないんですか」
「いや、確に葉っぱが鳴ったと思うんですがね」
 浅くひろがった松林があり、樹の間に掛茶屋が見えた。その彼方に海が光った。
 藍子は、額にかざして日をよけていた雑誌の丸めたのを振りながら、ずんずん先へ立って砂浜へ出て行った。
 遠浅ののんびりした沖に帆かけ船が数艘出ている。それ等は殆ど動かず水平線上に並んでいた。
「静かな海だなあ」
「……もっと波の高い海岸の方が勇ましくてようござんすね」
「然し、こりゃいかにも潮干によさそうなところですな。――その辺掘ったら蜆《しじみ》がいるんじゃないですか」
「どれ――ちょっと拝借」
 藍子は、脱いだ帽子をかぶせて突いていた尾世川のステッキで、波打際の砂を掘りかえした。
「こんなところ……誰かとっちゃっただろうな」
 下駄と足袋をぬぎすて、藍子は踝《くるぶし》とひたひたのところまで入って行った。
「一つもとれないなんて癪《しゃく》だ……やっとこら! と」
 勝気らしくステッキをぐっと倒して深く砂を掘り起した拍子に、力が余り、ステッキの先で強く海水を叩きつけた。飛沫が容赦なく藍子のかがんでいる顔や前髪にかかった。
「はっはっはっ、こりゃ愉快だ」
「生意気にこんな海でも塩っからい」
 手の甲で頬っぺたを拭き、後毛を風に吹かせながら藍子は笑い笑い戻って来た。
「道具がなけりゃ駄目ですよ。あ、あります、あります、ほらあの茶屋に札が出てい
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