とよ。喧嘩せざる藍子、喧嘩せる黒川に美枝子を奪わる」
 藍子は暫く黙っていたが、
「洒落《しゃれ》てるな。私もどっかへ行きたくなっちゃった」
と云った。尚子は故意《わざ》と揶揄《やゆ》するように、
「今なら間に合う。早く塩原へ行ってらっしゃい」
と云って笑った。

        四

 その時は釣り込まれて笑った。が、藍子は夕方小石川の二階へ帰って来て、新緑の若葉照りにつつまれて明るい山径と、そこを歩いているだろう人の姿を想い浮べると、何だか凝《じ》っと夜の間坐っていられない心持になって来た。
 藍子は旅行案内を出し、北條線の時間を調べた。木更津に友達が逗留していた。そこへ行く気になったのであった。両国を六時五十分に出る汽車がある。
 バスケット一つ下げ、藍子は飯田橋まで出てタクシーに乗った。
「間に合うだろうか」
「さあ……」
 自動車が止る。藍子が三和土に足を下す。改札口がぴしゃりと閉る。同時であった。藍子は二分のことで乗りおくれたのであった。それでも彼女は、
「北條行もう出ましたか」
と、改札口を去ろうとする駅員に念を押した。
「出ました。この次は銚子行、七時二十分」
 それは、旅行案内で藍子も見たが、乗換の工合がわるくて駄目なのだ。いっそ、次の列車で銚子まで行ってやろうか。切符を買いかけ、然しと思うと、それも余りいい思いつきとは思われず……癖で、左の人さし指で鼻の横をたたきながらぐずぐずしているうちに、藍子は立花に小さんがかかっているのを思い出した。彼女は、兎に角それをきいて、今夜は一旦家へかえることにしバスケットを一時預けにして、両国橋を渡った。
 翌日の午後、藍子はぶらりと尾世川を訪ねた。尾世川は昨日稽古をすっぽかしたことを頻りに弁解し、
「どうです、よかったらこれから少し埋め合わせしましょうか」
と云った。
「さあ……私両国へ行かなくちゃならないから」
「何か御用ですか」
「バスケットが駅に預けてあるんです」
 藍子は簡単に昨夕の出来ごとを話し、
「どうも一足でも東京を出ないうちは、虫が納まらないらしい」
と苦笑した。
「いや、いい気候ですからな、誰だって遊びたいですよ。まして貴女は旅行好きだから」
 去年の、やはり五月、藍子が五日程行っていた赤城の話をしているうちに、尾世川まで段々乗気な顔つきになって来た。
「何だかどうも私の尻までむずついて来た。
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