。七つ位の時、父から貰ったオパールの三つついた指環と、この指環と、二つが、きょう私のもつ指環のすべてとなっている。
夫人と私との間に、女同士らしい話がとり交わされるようになり、私に対してもっていて下さる関心の並々でないねうちも知ったのは、更にそれから数年経って、昭和七八年頃からのことであった。
昭和七年に、私が結婚して本郷の動坂町に家をもった。そのとき、夫人は大変よろこんで、実に美事な白藤の大鉢を祝って下すった。
房々と白い花房を垂れ、日向でほのかに匂う三月の白藤の花の姿は、その後間もなく時代的な波瀾の裡におかれた私たち夫婦の生活の首途《かどで》に、今も清々として薫っている。
その時分、古田中さんのお住居は、青山師範の裏にあたるところにあった。ある夏の夜御飯によばれ、古田中氏も微醺を帯びて、夫人の蒐集して居られる大小様々の蛙の飾りをおもしろく見たこともある。このお宅の頃は、数度上った。そして、何ということもない雑談の間に、夫人が西村家の明治時代らしく、大づかみで活溌な日常生活の中で成人された幼女時代の思い出や、妻となり母となってからの生活の感想を理解するようになった。
母が、お孝さんは熱情家だ、と云った言葉は、おおざっぱではあるけれども、当っていると思った。
少くとも、孝子夫人は、自分としての性格をもって居られた。その性格は、或る強さと純粋さとをもっていて、腹のきれいなと云われる人柄であったと思う。まめな、体も感情もよく働いていとわない、自分とひととの間に活々とあつく流れるものを感じていたい、そういう女性の一人であり、日々の生活をとおして、いつも溌溂と人生を感じ味おうと願っている女性の一人であったと思う。
孝子夫人は人生の感動を、生活の中に求めるひとであったのではなかったろうか。
多くの女性は、人間らしいこの欲望を、三十前後に失ってしまう。孝子夫人は、終生自分なりの形でそれをもちつづけた女性であった。この人間としての宝は、しかし、現実のなかでそのもち主たちを決して小さな安住の中にとどめておかないものである。さりとて日本の習俗のなかでは、闊達自在の表現で、その情熱を情熱のなりに発露させることもむずかしい。そのような社会の伝統に生まれた私たち日本の女性が、その情熱の翼さえ、おのずから短くさずけられて、重い日常から高く翔ぶにしては、未だ十分の羽搏きをし得な
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