いる。彼は飢を感じた。麦のある戸棚の方へ飛び立った時、雄鳩は再び見た、忘れぬもう一つの鳩を。彼は自分が飛び立った初めの目的をも忘れ、まだ点《とも》らない電燈の憂鬱に垂れた蓋に体をぶつけて翔び戻って来た。それは何か高いところであった。雄鳩の脚場《あしば》の邪魔になる物がいろいろあって、彼がそれに止ろうとすると厭な音をたてて倒れた。然し、その彼方にいる彼女をどうして見失うことがあろう。雄鳩は、始めて雌を見たと思った時より、更に情熱のこもった歓びで、
「グウックー、グウックー」
と喉を鳴らした。彼は嬉しさと慕わしさとで脚を高くあげつつ鏡に近づいた。同時に向うからも近づく、如何にも見覚えある白い姿を見た。雄鳩はいつかの夜棲り木の上から雌を呼んだ時の通りの声で、親しげに軟かく彼女に呼びつづけた。愛のしるしに飽かず嘴で触った。たとい何だか様子の異ったものとなったにしろ、ここに雌はいた。彼はもう孤独でない。過ぎ去った夜々のように彼はここで、雌の隣りに冬の夜を眠るのだ。
 雄鳩は出来るだけぴったり鏡の中の自分の影に身をすりよせた。彼の不思議な妻は冷たかった。――非常に冷たかった。ああ。然しそれは何でも
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