起させた。
「何だかすーすー寒いね、障子閉めとくれな」
 まさ子は、小さい娘がいなくなると、細かく容体をなほ子に話した。なほ子はそれを聞かない前より不安になった。
「その事は一時的で癒ったって、こんなに弱っているのはいけないわ、第一食慾のないなんか。どうしてちゃんとした人に診《み》てお貰いんならないの」
 まさ子は、弁解するように、
「診せたよ、だから――久保さんに」と云った。
「更年期にあり勝ちのことだから、その方は何にも心配することはないんだよ。――疲労だよ」
 そのうちに、父の昌太郎も帰って来た。
「どうですね、少しは何か食べられますか」
 それを捕え、まさ子は半分冗談で攻めるように、
「国府津へなんか来いと仰云るから悪いんですよ」
などと云った。

 なほ子は台所へ出て行き、冷肉を拵える鶏を注文させた。料理台の傍に立っている女中に、
「晩に上るもの、何か拵えた?」
と訊くと、
「いいえ、何も致しませんでした。召上りたくないと仰云いましたから……」
 雇人と、あとは小さい娘とだけで病床にいる母の境遇がなほ子の心に迫った。
 おそくなって、野菜スープやサラドを運んで行ったが、まさ子は、悦《よろこ》び、
「美味《おい》しそうだこと――御馳走になって見ようか」
と云うばかりで、ほんの一口飲み下しただけであった。彼女は、なほ子を落胆させまいとして云った。
「明日にでもなれば、きっと味が出るだろう」
 父親と二人になった時、なほ子は本気になって専門医に見せることを勧めた。
「何でも糖尿病と更年期に押しつけて置いて、ほんとに手後れにでもなったら大変よ」
 昌太郎は、
「うむ、うむ、いやその通りだ」
と、頷いた。が、その手筈を決める決心はつかないらしかった。なほ子は、祖父の癌であったことからそれを気にしているのであったが、まさ子は、そんな疑いを頭に置かないし、置いているとしても彼女は第一医者に信用を置いていなかった。十三年ばかり前、癌だと云われ、切開されそうになった経験があった。その時、まさ子はその方面では大家である専門医と議論し、頑張って到頭切開させなかった。それは後になって見ると実際癌ではなかった。幽門の潰瘍《かいよう》風のものであったと見え、まさ子は殆ど医者にかからず、忍耐と天然の力をたのみに癒した。自分の体は自分が一番よく知っている、そのように今度も云った。
 十時過、なほ子は耕一の仕事場にしている離れに行った。襯衣《シャツ》一枚になって、亢奮が顔に遺っていた。彼は出来上りかけている製作をなほ子に見せながら、
「姉さんいて呉れると、どんなに心丈夫だか分らない――話んなりゃしないんだから、間抜けばっかりで」
と云った。傍の台の上に、耕一が製図している家の油土の模型が出来ていた。彼は、
「電球見ないでね」
と注意して、二百燭をつけ、それを写真に撮った。卒業製作なのであった。

 翌日、まさ子は床についたままで、矢張り殆ど食事が摂れなかった。
「こんなに長く恢復しないことは無いのに」自分でも怪しんだ。
「幽門の瘢痕《はんこん》は仕方がないもんだそうだね、時々サーッと音がするようだよ。――何だか感じがある」
 母自身決して平気でいるのではなく、却って或る意味では医者を恐れているのが、なほ子に感じられた。なほ子が押して診察をすすめると、不快そうに理屈を云い、やがて、全然違う話をいろいろ始めた。
「こうやって寝ていると、昔のことをしきりに思い出してね、お祖母さまがいらしったうちに、いろいろ伺って置かなかったのが本当に残念だよ。――御自分でも話して置きなさりたかったんだねえ、春頃、もう喋って喋って、私の方が閉口してしまいました」
 明治二十五六年頃住んでいた築地の家の洋館に、立派な洋画や螺鈿《らでん》の大きな飾棚があった。若い自分が従妹と、そこに祖母が隠して置いた氷砂糖を皆食べて叱られた。その洋画や飾棚が、向島へ引移る時、永井と云う悪執事にちょろまかされたが、その永井も数年後、何者かに浅草で殺された事など、まさ子は悠《ゆっく》り、楽しそうに語った。向島時代は、なほ子も聞いた話が多かった。それから、昌太郎が外国へ行った前後の話。――母の生涯のこれまでの生活全体が、くっきりなほ子の前に浮び上って来た。
 なほ子は母の老いたことを沁々《しみじみ》感じ、さっき彼女自身、祖母について云った口うらから、母が飽きず思い出話をするのが、水のように淋しかった。
 午後、復興局に働いている若者が見舞いに来た。区画整理で、寺の墓地を移転するについて、柳生但馬守の墓を掘ったら、中には何もなかったと云う話をした。
「へえ、奇体なことがあるね、どうしたんだろう」
 まさ子は興味を示した顔つきで、その若者やなほ子を見た。そんなとき、眼に平常《ふだん》の母らしいかさばった強い重い感じが現れた。が、なほ子はその間にも心痛の加るのを感じた。半分笑いながら、
「このお婆ちゃんは頑固でどうしてもお医者がいやだって仰云るのよ。土屋さん、一つすすめて頂戴」
と、なほ子はその客に云った。土屋が帰ると、まさ子は、横になりながら、
「一つは精神的にも来ているんだろう」
と云った。
「この頃は生きている張合がなくなったような気がする――何か期待するなんていう気持がちっとも起らなくなってしまった、極く冷やかな心持だねえ、悟ったって云えば悟ったのかもしれないが……」
 なほ子は思わずつよく、
「悟りは冷やかなもんじゃあないことよ、あたたかいはずよ」
 そして、笑い出しながら云った。
「けちなこと云い出すと、火をつけるぞ――」
「――何だい――」まさ子は「なんだ、飛んだ婆焼庵だね」
 苦笑したが、
「全くね、若い時分には、立派な家に棲っている人を見ると、ああ羨しい、自分もどうかあんな家に住みたいと思ったもんだが、この頃は、まあ一体こんな家の後をどんな人が継ぐのだろう、と思うね、羨しくなんぞちっともない。却って変な淋しい気になる。――それに……この頃では父様の力というものも分って来たし……これ以上の成功は望めないと思って来たしね」
 黙って母の傍に自分も横わりつつ、なほ子は心に感じてそれ等の言葉をきいた。母の心の内部に新しい転機が来かけている。それが、どこかで自分の心とふれ合うものらしいのをなほ子は感じた。

 昌太郎が、北海道へ旅行しなければならなかった。その留守の間、このようなまさ子一人では心細いし、なほ子としては、どうしても一度信用ある医者に診せないうちは気がすまなかった。三四日泊ることにし、一旦、郊外の家へ帰った。
 宵から降り出し、なほ子が十一時過て郊外電車に乗った頃、本降りになった。梅雨前らしいしとしと雨であった。暗い田舎道を揺れながら乱暴に電車が疾走する。その窓硝子へ雨がかかり、内部の電燈で光って見える。なほ子は停留場へつく前に座席を立ち、注意して窓の外を覗いた。誰か迎えに来ていて呉れるであろうか。時間がおそかったし、第一、約束もしていないから当には出来ず、然し、人通りない暗い町を、その元気の足りない心持で一人行くのは閉口なのであった。電車が止った拍子に、待合所の隅でひょいと人の顔が動いた。大変小さい顔に見えた。がそれは総子であった。なほ子はわざわざ出ていて呉れた総子の心持に、特別な思いやりのあるのを感じ、一層嬉しかった。総子は、不恰好な足駄の包や傘など一どきに抱えて立ち上り、
「さ、これ」
と云った。
 他の者はもう寝ている。総子の部屋で茶をのみながら、なほ子は母の容体を話した。
「それで?――誰かに診せたの」
「まだ」
「そんなことってあるものか」
 総子は、大きな怒ったような声を出した。
「貴女がついててそんな!」
「だからね、明日行ったら私自分で手筈するわ、もう親父さんはあてにしないで、ね」
 目の前に母の顔を見ていた間、心配は心配でも何か切迫しないものがあったが、今総子と話していると、なほ子はこわさに似た不安を覚えた。親が老いたということが子にとって持つ意味の大きさ、それがなほ子の心臓をさしたのであった。――
 総子が煙をぱあっと散らせながら煙草をのんだ。そして、なほ子の顔を見ている。なほ子も内心の感じに捕われながら、自分を見ている総子の顔を凝っと見ていたが、不意に彼女は口を少し開け、変に苦しげな恐怖に襲われた表情をした。総子の顔を見ている眼に、問いたげな色を現わした。
「どうした? どうした?」
 なほ子は、頭を振って大丈夫と云う意味を示し、一寸経ってから、
「何でもない……少々過敏になっているもんだから」
と云って咳払いをした。言葉に出すのがいやでなほ子はそう云ったのであったが、本当は訳があった。総子の顔を見ているうちに、なほ子は或る夢を思い出した。それは、歯の抜け落ちる夢であった。何かしていると、上歯がみんな一時に生えている順にずり抜けた。おどろき悲しみ、手で押えるがザクザク口一杯になってどうしようもなく、その堅い歯がザクザク口一杯にひろがった時厭な、絶望的な感じが醒めて後まではっきり残った。同じ夢を一度ならず見た。なほ子は迷信家ではなかったが、今突然その心持が甦って来ると、神経の平静が保てなかったのであった。
 風呂を浴び、自分の部屋へ行くと、寝台の上に新らしい白い蚊帳《かや》が吊ってあった。天井から吊るす丸い蚊帳であった。爽やかさから慰安を感じ横わったが、なほ子は容易に眠れなかった。心を張りつめる不安を追って行くと、不安は暗《やみ》の裡で無限に拡り、なほ子の心を震わす程強かった。これは夢中な心配だ、夢中な心配だ。なほ子は心配で強ばりながらそう思った。生活態度について互の意見が違い衝突することが屡々あった。それにも拘らず何と自分は自分の母を愛していることだろう。今となって見ればその為に却って彼女も全力をつくし生きたことが理解され、愛されるのが必要なのはもう自分ではない母の番だということをなほ子は敬虔《けいけん》な心持で感じるのであった。然し、子供の時から常に与えてであった母、より強きものであった母を、或る時、弱きもの、全然自分の劬《いた》わるべきものとして発見するのは、なほ子にとって異様な感動であった。理解しないことのあるのも当然だ。気短かな母、理解せぬ母を母の生活の盛りの思い出の為だけにでも愛すであろう。或る時は怒ったり、或る時は笑ったりしながら。――
 なほ子は、新たな愛の自覚から、一層母をこの世に於て離れ難き者に感じ涙をこぼした。



底本:「宮本百合子全集 第三巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第三巻」河出書房
   1952(昭和27)年2月発行
初出:「中央公論」
   1927(昭和2)年8月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年9月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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