白い蚊帳
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)手摺《てすり》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)沢山|柄杓《ひしゃく》がかかっていた。
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)井[#「井」は○付き文字]
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なほ子は、従弟の部屋の手摺《てすり》から、熱心に下の往来の大神楽を見物していた。その大神楽は、朝早くから温泉町を流しているのだが、坂の左右に並んだ温泉町は小さいから、三味線、鉦《かね》などの音が町の入口から聞えた。
今、彼等は坂のつき当りの土産屋の前で芸当をやっていた。土産屋の前は自動車を廻せる程度の広場なので足場がいいのだろう。大神楽は、永い間芸をした。朝から殆ど軒並に流して来ていたのでもう見物は尠い。土産屋の柱のところに、子供を抱いた男が一人立っていた。あとは子供連だ。その子供連にしても今は仲間同士で遊びながら、何とはなし彼等の周囲にたかっているというだけであった。間に、田舎万歳の野卑な懸合話をしたり、頭を扇ではたき合ったりするが、愈々《いよいよ》本気で水芸にかかると、たかみの見物をしているなほ子までおのずとその気合に引き入れられる程、巧に、真面目にやった。気のない見物を当てにせず、芸当を自分でやってその出来栄えを楽しんでいるような風があった。その男の黒紋付は、毎日埃を浴びて歩くので裾のところの色が変っている。雪の深い地方らしい板屋根の軒を掠めて水芸道具の朱総がちらちらしたり、太鼓叩きには紫色の着流し男がいたりするのが、荒涼とした温泉町に春らしい色彩であった。
なほ子は、すっかり道具をしまった小車を引いて彼等がそこを立ち去るまで見ていた。
「あんなにやって、いくら位貰ったのかしら……一円ぐらい?」
詮吉は座敷の長火鉢の前に中腰になったきり、
「さあ、この辺じゃ一円は出すまい、よくて五十銭だろう」
口を利きながら、彼は持っている半紙大の紙へ頻りに筆を動かした。
「なあに」
「――ふむ」
やがて、
「どう? 一寸似ているだろう」
彼が持って来たのを見ると、それは大神楽に見とれていたなほ子のスケッチであった。横を向いている頬ぺたのところや、爪先に引っかかったスリッパの尻尾が垂れ下っているところなど、なほ子は自分の感じをはっきり感じた。
「こんなに描けるの? 詮吉さん」
「偶然さ、君が余り余念なく見ているんで一寸面白いなと思ったもんだから。――でも感じ出ているでしょう」
「うまいことよ、この位なら物になるかもしれないわ」
詮吉は日本橋の方に商人暮しをしているのだが、絵でも習いたい、そういう趣味の幾分かある若者なのであった。
三階は、湯治客のすいている時なので空部屋が多い。静かな廊下を、二人はスケッチをもって、総子のいる方へ戻った。
「長い大神楽だね」
「その代りこんな傑作が出来た」
「見て呉れ、よう。じゃない?」
吉右衛門の河内山の癖をもじって、皆、スケッチをそっちのけに笑った。
詮吉が散歩に出たいと云う、総子は風があるから厭だと云う。結局なほ子と詮吉とだけ出かけることになった。
詮吉は軽そうなセルに着換え、ステッキを下げて出て来た。
「この位風があれば殺生石も大丈夫だろう。一つ見て来よう」
「お総さん、見ずじまいになっちゃうわ」
「いいさ、我まま云って来ないんだもの、来たけりゃ一人で来ればいい」
なほ子は先に立って、先刻《さっき》大神楽をやっていた店の前から、細いだらだら坂を下った。
「道、分ってるの」
「ええ」
夏の準備に、あっちこっちで路普請や建て増しをしている。その坂のところでも僅かな平地に日当り悪そうな三階建が立ちかかっていた。一雨で崩れそうなごろた石の石垣について曲り、道でないような土産屋の庇下を抜けると、一方は崖、一方に川の流れている処へ出た。川岸に数軒ひどい破屋があって、一軒では往来から手の届く板の間に黄色い泥のようなもので拵えた恵比寿がいくつも乾してあった。
「――ひどい路だな」
なほ子は黙って歩いた。彼女にとってこの路は始めてではなかった。数年前、今は別れた夫とこの道を何度も通った。崖の洞《ほら》に祀ってある何かの小さい社に見覚えがあった。
橋を一つ渡ると、道は左手に川を眺めて進んだ。ところどころ、大きな地崩れでやっと一人歩ける小道が、右手の石垣よりに遺されている。やはりごろた石の垣だ。歩きながら、なほ子はひとりでに二三度、その石垣の上の家の方へ視線を向けた。彼女が五日ばかりいた小林区の役宅と云うのは、確かにその辺に在ったに違いないのに、どこにもそれらしい家のかげは見えなかった。ただ、どれが新しいとも分らない同じような破屋がその辺一帯に建てこみ、一軒の理髪店が、赤と藍との塗り分け棒を軒先に突き出している。当時の記憶は、なほ子にとって快いものではなかった。然し、そう数年のうちに全然忘れ切れる種類のものでもなかった。それに反してあたりの様子の変りようの激しさが、なほ子に意外な、ぼんやり驚きの感情さえ与えた。見れば、川も、幅が半分ばかりになっている。
詮吉は、呑気《のんき》にステッキを振り振り、
「荒れてるなあ、物凄いようだ」
と、都会人らしく感歎した。
「そりゃ湯ケ原のようには行かなくてよ」
「え? うむ、そりゃ分ってるが……硫黄の出るところは流石《さすが》に違うな」
「家らしいのは宿屋だけね」
この方面ばかりでなく、宿屋が並んだ表通りを一寸裏へ入ると、どこでも北海道の開墾地へ行ったような有様なのであった。
彼等は、元湯共同浴場と立札のあるところへつき当った。道が二筋にそこで岐れている。
「どっち?」
眺め廻し、なほ子は苦笑しつつ、
「さあ、分らなくなっちゃったわ」
と云った。
「右じゃないかしら」
彼等の先へ、二人連れの男がぶらぶら行くのでなほ子はそう云ったのであったが、少し行くと其方は行き止りであった。
「おやおや、怪しい道案内だな。――誰か訊く人はないか――訊いて見よう」
「大丈夫よ、じゃあ此方」
一つの共同風呂の窓が開いていた。強い硫黄の香が漂い、歩きながら人気ない幾つもの湯槽が見下せた。湯槽を仕切る板壁に沢山|柄杓《ひしゃく》がかかっていた。井[#「井」は○付き文字]とか、中村、S・Sなどと柄杓の底に墨で書いてある。
そこを過ぎると、人家のない全くの荒地であった。右にも左にも丘陵の迫った真中が一面焼石、焼砂だ。一条細い道が跫跡《あしあと》にかためられて、その間を、彼方の山麓まで絶え絶えについている。ざらざらした白っぽい巌の破片に混って硫黄が道傍で凝固していた。烈しい力で地層を掻き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》られたように、平らな部分、土や草のあるところなど目の届く限り見えず、来た方を振りかえると、左右の丘陵の巓《いただき》に、僅か数本の躑躅《つつじ》が遅い春の花をつけているばかりだ。森としている。硫黄の香が益々強い。
自然の圧迫を受け、黙って足早に歩きながら、なほ子は悲しい歓ばしい感動を覚えた。ここさえも、なほ子が嘗て覚えている光景とはいつかすっかり異っていた。道の工合も違う。大きな地辷りがあったと見え、巌と泥とごたまぜに崩れ落ちている丘陵も違う。もっと奥の温泉への登り口がどこかその辺の篠原の間についていた筈だが、見当もつかない。――いくら見ても見当のつかないのが悲しく歓ばしく、なほ子は、度々その方を見ては鋭い感情を味わった。暗い一生の思い出と結びついたものと思っていた自然が、こうも新しいものとなって眼前にある!
飛ぶものは雲ばかりなり石の上 芭 蕉
石の碑が見えるところまで来ると、詮吉は真白い手巾《ハンカチ》を出して鼻を覆うた。
「ここより、却って来るまでの方が臭かったわ」
「そう?……いや臭い臭い」
詮吉は一旦はなした手巾をまた鼻におしつけた。
暫く、黒いごろりとした石を眺め、彼等は左手の丘陵へ登る路を帰途についた。或るところで一坪ほどの地面が大きな一本の躑躅ごと坂道へ雪崩《なだ》れ込んでいた。根こぎにされたまま、七八尺あるその野生の躑躅は活々樺色の花をつけていた。
真先に詮吉が東京へ帰った。なほ子もやがて立つことになったが、単調な山の中に半月もいて、同じような郊外の家へ帰るのは如何にも詰らなかった。真直に夜の東京の中心に戻り、燈火と人間と、明るく暗く錯綜に揉まれたかった。弟でも誘い出しどこかで夕飯をたべるつもりで、なほ子は上野へ着くと両親の家へ電話をかけた。
「お離れにいらっしゃいますから一寸お待ち下さい」
「もしもし、ここ自動電話だから早くしてね」
それでも、待つ時間が気になる頃、耕一が出て来た。
「ああ、暫く。――今日帰ったの?」
「今上野なの――貴方出て来る気ない?」
暫く考えていたが、耕一は、
「僕今夜は家にいた方がいいな」
と云った。
「友達が二三人手伝いに来て呉れることんなってるから――え? 製図――それに阿母さん工合わるがってるから、家へいらっしゃいよ」
なほ子は、灯のつき始めた山下辺、池の端の景色などを曇ったタクシーの窓から、それでも都会らしく感じて眺めた。
植木屋が入ったと見え、駒込の家の玄関傍に、始めて見る下草の植込みが拵えてあった。薄すり紫がかった桃色の細かい花が、繊《ほそ》い葉の間に咲いている。それを見ながら、なほ子は呼鈴も押さず、暗い板の間へ通って行った。茶の間の戸を開けようとしていると、
「アラ」
千世子が、おかっぱと制服の裾を膨《ふく》らませ、二階から駈け降りて来た。
「お母様、工合がおわるいって?」
「ええ。お姉様いつ帰ってらしったの」
「今かえったの。――寝てらっしゃるの」
千世子は、何だか当惑そうに合点した。そして、少女らしい様子で、
「――疲れてるんだって」
と云った。なほ子は、母が下りて来るか、自分が二階へ行こうか、千世子をきかせにやった。
「今起きたところだから、三十分ばかり休みたいんですって」
なほ子は、その間に風呂へ入った。水道の湯が久しぶりで心持よく、生垣の彼方で活溌な子供の声がしたり、それより一寸遠いところでピアノの音がしていたりするのが、愉快であった。生活の泡立っている感じが、体の周囲であぶく立つ石鹸の感覚と縺《もつ》れ、なほ子は何度も何度も勢よく立ったまま湯を浴びた。
軽々した気持で、なほ子は二階へ登って行った。
「いかが」
「ああ」
まさ子は、半分起き上った床の上で、物懶《ものう》そうに首を廻し、入って来る娘を見た。
「どうもはっきりしないんで困っているのさ――温泉はどうだったい――よく来たね」
「いやに萎れた声ね、どんななの?」
まさ子は、床の裾に腹這いになっている千世子の方に目をやり、
「何だかいろいろたたまったんで悪かったんだね」
と云った。力なく腹のところを折りまげるような姿勢で、
「食慾がちっともないんで疲れて」
と吐息をついた。
眩しくないように足許の台に乗せたスタンドの明りで、なほ子は皿に盛られたままの煮た果物や赤酒のコップなどを見た。それ等は少くとも午後からじゅうそのままそこに置かれていた様子であった。なほ子は、女中を呼んで、そんなものを皆片づけさせた。
「始終そばに置いて見ていちゃ猶食慾が出ないわ。――今日何あがったの?」
「牛乳だといくらでも飲めるから、きのうは牛乳二合ばかり、今日は葛湯も少したべた」
まさ子は、大儀そうに小さい声で、
「ああ、ああ」
と云い、先ず肱をおろし、肩をつけ、横たわった。
千世子が下で、疲れるんだって、と云った時、微妙な一種の表情があったので、なほ子は、屡々《しばしば》ある不眠の結果だろうと思っていた。まさ子は数年来糖尿病で、神経系統に種々故障があるのであった。
「――じゃ今日だけ一寸|臥《ね》ていらっしゃるんじゃなかったのね」
「国府津から帰ると悪いのさ――あとさき六日ばかりだね」
耕一や千世子が母の容体につき無頓着そうにしているのが頼りない変な心持をなほ子に
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