問題となる。何故なら、私たちすべては、何らかの形で今日そのようなものとしての切り口を見せている歴史をうけつがなければならず、しかもそこから健やかな革命的教訓を最大の可能において引き出して来なければならないのであるから。
 率直に感想を述べると、私には村山や中野の話の中に、何か腑に落ちず、居心地わるい心持を与えられるものがある。あのようにいい頭といわれる頭をもっていて、自分たちが、転向するようになった気持が自分にもよく分らないといってそれを押すのは、事情もあろうがなぜなのであろう。私には杉山氏のように皮肉にだけ思うことができない。細いこと、筋のとおったことは分らないが、とにかく〔五字伏字〕(復元不可能)得だという点だけには悟りが早かったのだという意地わるい言葉が通用するであろうか? 私はくちおしい気がするのである。
 谷崎潤一郎氏が「春琴抄」を書いて、世評高かった頃、その作品を読み、私はある人から見たらおそらく野蛮だといわれるであろう一つの考えにとらわれた。それは、谷崎氏のように精力的作家でも、日本の作家は初老前後となれば落ちつくさきはやっぱりここかという失望である。
 佐藤春夫氏、谷崎
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