電車の見えない電車通り
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)警官[#「警官」に×傍点]が顎紐をおろして
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九月一日の夕刊に、物々しい防空演習の写真と一緒に市電整理案が発表された。全従業員一万八百人を全部解雇、改めて新規定の四割減給で採用し、八百五十万円を浮かして、永年にたまった八百万円の赤字を一気にうめようと云う整理案である。
翌日の夕刊で、その整理案撤回を東交が要求して、罷業準備の指令を発したという記事をよんで、私達はそれが突飛なことであるというような感銘はちっとも受けなかった。整理案の内容は、既に一般市民に、東交がそう出ることの自然であるという感じを抱かせずにおかない種類のものであったということが出来よう。
海をへだてたアメリカでは、丁度時を同じくして全米繊維の大罷業が七十二万人の労働者をふくんではじまっている。
三日の夕方、東交代表河野争議部長が、下唇を突出し気味に背中を堅くして椅子にかけている山下局長に向って整理案撤回要求書を差し出しているところを撮った写真が出た。でっぷり太った角がりでチョビ髭を生やした河野が詰襟服姿で起立し、要求書の両端を押えて山下局長へ向ってひろげている場面である。重い空気がマグネシュームをたいてとられた写真の面に感じられるが、その雰囲気は率直に殺気立つものとは違った、寧ろ大変大人っぽい、謂わば相方とも腹のなかは心得きっている上での折衝と云う情景である。私は電燈の下で長いことその写真を眺めた。そして、河野争議部長が肉厚な顔なのに要求書の端を押えている左手の小指を軽く曲げているのは、どんな性格を示しているのだろうかなどと考えるのであった。
愈々五日の始発から総罷業と決定した前の晩、おそくなってから私は用事の帰途、早稲田車庫の前を通った。
電車が途絶えた折からで、からりとした夜の大通りの上に赤青の信号燈が閃き、普段の夜のとおり明るい事務所の内で執務している従業員の姿が外から見えた。何心なく行くと、引込線の通った車庫のわきに一寸した空地のような場処がある。その叢の物かげに、洋服姿の男が一人佇んでいる。立小便をしている風に見えぬ。姿はおぼろだが眼は往来に向って絶えず光っているのがわかるのであった。
それで気がついて左側を見ると、もう七分どおり大戸をおろした店のまわりなどまだらな光の裡に、ステッキをつき、浴衣がけで、走っている円タクを止めるでもなく、ぶらりと立っている男が、そこここに目に入る。私はいやな気持で通りすぎた。
その晩は、仕事のために半徹夜をして、あくる朝目がさめると、私は後手で半幅帯をしめながら二階を下り、
「――どうした? 電車――」
と茶の間に顔を出した。
「ああ、やった」
身持ちの弟嫁が縫物から丸顔をあげてすぐ答えた。
「源ちゃん、何で行ったの?」
「バスは通ってるんですって」
その縁先の庭で、もう落ちはじめた青桐の葉っぱを大きな音を立てて掃きよせていたシャツ姿の家の者が、
「電車も、たまですが通ってますよ」
と云った。この遠縁の若者は、輜重輪卒に行って余り赤ぎれへ油をしませながら馬具と銃器の手入れをしたので、靴をみがくことまで嫌いになって帰って来た男である。
午後になって、私は家を出かけ、もよりのバスの停留場に立った。この線はふだんでも随分待たなければ来ないところである。雨の用意の洋傘を中歯の爪皮の上について待っていると、間もなく反対の方向から一台バスがやって来た。背広で、ネクタイをつけ、カンカン帽をかぶった四十男が運転台にいる。見馴れぬ妙な眺めだ。
坂の下り口にかかると、非常に速力をゆるめ、いかにも、曲り角などの様子を気遣う工合でそのバスが行ってしまうと、いれ違いに、一台下から登って来た。
停留場を通りすぎそうなので、私はいそいでかけ出しながら片手をあげ、腰かけてから見ると、運転手は白縮のシャツに黄ズボン姿。車掌は背広のひどく背の高い若い男で、灰色っぽいソフト帽をかぶっている。これにも、さっきむこうへ行ったのにも白い警官[#「警官」に×傍点]が顎紐をおろしてのりこんでいるのであった。
「――東京駅まで……二枚でしょう?」
黒い書類入れを側において、年とった男が回数券を出してきろうとすると、
「今日は一枚です……のりかえなければ五銭均一ですから」
俄車掌は、動揺のためのめるまいと長い両脛でうんと踏張り、自分の尖った鼻を腰かけている相手の帽子の下へ突っこみそうに背をかがめ、間のびのした形で腰にぶら下っている鞄の中から釣銭をさがし出す。よほど緊張していると見え、その車掌は客に切符をうる段になると、目ばたきをやめ口をあいて、その仕事に従事するのであった。
三つまたの大通へかかったとき、これも臨時ではあるが、遙に馴れている運転手が、
「左! 左を見て!」
とハンドルを握ったまま力をいれて早口に注意したが、俄車掌がやっとステップに出た時、とうにバスはその危険なところを横切ってしまっている。――
神田に向う電車通りに出ると、空円タクがふだんの倍ほど通っているきり、平穏である。むこうから一台、ワイシャツの前にネクタイをたらし、カンカン帽の運転手に運転された電車が来た。
私の乗っているバスの俄車掌は、停留所が近くなると、長い体を折って一々前方をすかして見ては、
「次は××町でございます。お降りの方はございませんか」
と呼んだ。そして、降りる者があると、その一人一人の後から、
「ありがとうございます」
と云うのである。その夏服の肩や襟のあたりはいい加減やけている。きょう一日のスキャッブ代金四円をこの男は夜になってどんな感情で数えるであろうかと思った。
昭和七年の争議では強制調停によってクビになった連中が、今日、あの当時からみると三円もやすくスキャッブに呼び出されている。それらの人々はどんな心持で乗車しているだろう。千何百名とかに、電気局は召集の電報を打ったそうだが、その人をばかにした呼び出しを突っぱねることの出来た者は、果して何割あったろうか。私は、シャツ一枚の運転手や長い脛を力一杯踏ばっても猶よろよろしながら片手で大切そうに鞄を押える俄車掌の姿を、憐憫と憤怒のまじりあった感情で見つめるのであった。
私のその視線が、揺れながら進行するバスの中で一つのものに止った。ステップに近いところに、客から受取った切符をいれるためのニッケル色の小判型の箱がついている。そこに、くっきりした字で285大浦と書いた紙がはりつけられている。きのうまで、この車には大浦何とかいう婦人車掌が乗組み、たとえばさっきのような角へ来た時は敏捷な動作で手を出しながら「左オーライ!」と呼んでいたのだ。自分の車をすて、自分の名の書いてあるニッケル色の光った箱をすて、彼女は仲間と一緒に合宿へ籠城している。紺のスカートを勢よくひろげて車座に坐り、熱心に報告をきいたり、歌をうたったり、またはほころびを縫ったりしている婦人車掌たちの様子が、私にはまざまざと見える。今度の整理案ではバスの婦人車掌、月収四十八円のところを、三十八円に減らされることになっているのである。
この頃では、バスの車掌もひところのように赤ん坊が生れたからと云って退くひとがなくなって来た。堂々子供をつれて職場にねばるようになって来た。
××終点の引かえし線の安全地帯に立っていたら、すぐうしろで、
「ストライキ見に来たよ」
と太い男の声がした。ふりかえって見ると、銀モールの太い紐をかけた潰し島田に白博多の帯をしめた浴衣姿の芸者がいて、男はその芸者屋の主人という風体である。絞りの筒っぽで、縮緬の兵児帯を尻の先にグルグル巻きにしている。
「ストライキをやってるってえから……電車動いてるじゃないか」
その芸者は黙って、安全地帯の上から珍しそうに通って行くバスの中をのぞき込み「お父さん」何とかと、云っている。
「車庫へ行って見よう」
やがて五十がらみの男はそう云って歩き出したが、芸者はそれについて二三歩あるいたきり、安全地帯からはなれず、頻りに四辺を見まわしている。
終点のまわりには、何ということなし、街の様子を見物に出ている子供づれの女や男が、安全地帯のところではなく、洋服屋の既成品のぶら下ったしたあたりに佇んでこっちを見ている。
六時すこしまわった刻限で、その場末の終点の光景は一種特別であった。市内から終点に向って来る電車はどれも満員で、陸続と下りる群集が、すぐ傍の省線駅や歩道の各方面にちらばるが、その電車が終点からベルを合図に市内に向けて出発する時はどれにも、ちらほらとしか乗客がのっていない。
一台ポールの向きをかえるごとに、安全地帯の上をコツ、コツ、歩いている赧ら顔に新しいカンカン帽をかぶり、縞ズボンに白い襟がついた黒チョッキ、黒上衣といういでたちのずんぐりした四十男が、
「××橋行きでございます。××橋行きの方はおのり下さい」
または、
「どこだい?」
と、横柄な親しさで背広服の急造運転手に声をかけ、
「×橋行か」
声の調子を改めて、
「×橋行きでございます。――××方面のお方はおのり下さい」
一こと一ことをはっきりと呼んで、またコツ、コツ安全地帯をこっちへやって来る。
私がここへ来たばかりの時、その妙にきわだった服装の私服めいた男は、白粉やけのした年増女と、声高にこう喋っていた。
「あんまり見ちゃいられねえから、手伝ってやるのよ。――あっちこっちから役人をひっぱり出して来ているんだから、まるきし何も分りゃしねえ」
そう云って、その横にいる私の方を聞いたかと云わんばかりに見た。女もつられてちらと私の方を眺めたが、私に対しても、男の話に対しても大した興味はなさそうな眼つきで、
「大変だねエ、やすみっこなしでさ」
と、口の先だけしんみり応答している。
女はいつの間にかいなくなった。赧ら顔のずんぐり男は、それでも、電車が来ると、
「えー、ナニ? 入庫、君、入庫して下さい」
とやっている。
「入庫だって」
「入っちゃっていいんですか」
開襟シャツの若い背広車掌はいかにも嬉しそうである。
「ポール直して」
ずんぐりが指図している。車内にのこった一人が方向を巻き直そうとしてのび上ったら、
「方向はいいから、方向板だけはずして下さい」
その電車は、ポールを直した車掌をのこしたまま動き出しかけた。背広車掌があわてて一二歩走りながら、
「ちょっと! だめだよ」
「おい、おい、車掌忘れてっちゃ困るよ」
そして、ハハハハとカンカン帽を仰のけて笑った。別に続いて笑うものもいない。――
遂に×橋行に私が乗りこむと、つづいて大きい風呂敷包みを腕にひっかけた男がいそいでのった。
「×○下」
男が五銭出して云うと、いかにもスポーツ好きらしい顔つきの急拵え車掌が、
「のりかえは出さないんです」
と云った。
「どウして」
もう一人の車掌が応援にやって来て、
「だから五銭です」
と、答えにならぬような答えをした。
「なあんだ! インチキじゃアないか!」
すると、はじめの方の車掌が、腹立しそうな半分冗談のような口調で、
「――臨時を余りいじめないで下さいよ、すきでやってるんじゃないんだから……」
そのまま車の中央に貼り出してある地図の下へゆき、両手でつり皮につかまりながらそれを眺めはじめた。
車庫には、明るい空電車が外まではみ出して何台もつめかけ、アゴ紐をおろし、巻ゲートルをつけて立っている八九人の白服の姿を浮立たしている。ひどく人気のすくない事務所の内で監督らしいのが往来へ背を向けて立ち、その前で臨時志願の男が四人ばかり、書類へ何か書きこんでいるのが走って行く電車の上から見えた。
九時すぎて、電車、バスの罷業破り運転も休止すると、電車通りを円タクが乱暴に疾駆しはじめた。
私はくたびれて家へ帰った。茶の間へ入ると、
「あーラ、お姉さんかえって来た!」
と、いい年をして弟妹どもが噪いで手をたたいた。
「おそいから心配しちゃった。三
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