と云わんばかりに見た。女もつられてちらと私の方を眺めたが、私に対しても、男の話に対しても大した興味はなさそうな眼つきで、
「大変だねエ、やすみっこなしでさ」
と、口の先だけしんみり応答している。
女はいつの間にかいなくなった。赧ら顔のずんぐり男は、それでも、電車が来ると、
「えー、ナニ? 入庫、君、入庫して下さい」
とやっている。
「入庫だって」
「入っちゃっていいんですか」
開襟シャツの若い背広車掌はいかにも嬉しそうである。
「ポール直して」
ずんぐりが指図している。車内にのこった一人が方向を巻き直そうとしてのび上ったら、
「方向はいいから、方向板だけはずして下さい」
その電車は、ポールを直した車掌をのこしたまま動き出しかけた。背広車掌があわてて一二歩走りながら、
「ちょっと! だめだよ」
「おい、おい、車掌忘れてっちゃ困るよ」
そして、ハハハハとカンカン帽を仰のけて笑った。別に続いて笑うものもいない。――
遂に×橋行に私が乗りこむと、つづいて大きい風呂敷包みを腕にひっかけた男がいそいでのった。
「×○下」
男が五銭出して云うと、いかにもスポーツ好きらしい顔つきの急拵え車掌が、
「のりかえは出さないんです」
と云った。
「どウして」
もう一人の車掌が応援にやって来て、
「だから五銭です」
と、答えにならぬような答えをした。
「なあんだ! インチキじゃアないか!」
すると、はじめの方の車掌が、腹立しそうな半分冗談のような口調で、
「――臨時を余りいじめないで下さいよ、すきでやってるんじゃないんだから……」
そのまま車の中央に貼り出してある地図の下へゆき、両手でつり皮につかまりながらそれを眺めはじめた。
車庫には、明るい空電車が外まではみ出して何台もつめかけ、アゴ紐をおろし、巻ゲートルをつけて立っている八九人の白服の姿を浮立たしている。ひどく人気のすくない事務所の内で監督らしいのが往来へ背を向けて立ち、その前で臨時志願の男が四人ばかり、書類へ何か書きこんでいるのが走って行く電車の上から見えた。
九時すぎて、電車、バスの罷業破り運転も休止すると、電車通りを円タクが乱暴に疾駆しはじめた。
私はくたびれて家へ帰った。茶の間へ入ると、
「あーラ、お姉さんかえって来た!」
と、いい年をして弟妹どもが噪いで手をたたいた。
「おそいから心配しちゃった。三重衝突でつぶされちゃったかと思ったわよ」
その辺には号外やら夕刊がとり散らされてある。どれにも、各所に籠城した罷業従業員達の動静や街上風景を写真ニュースで報じ、「怖し羞し背広の車掌」「非常時運転がこぼすユーモア」「笑いをのせて」などと云う記事が面白可笑しく出ている。一方山下又三郎の名で「総罷業の首謀者四十五名に解傭を通告」という報道がある。
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今回の罷業に関し貴下を懲戒解傭の処分に附するの已むなきを得ざるに至りし事は遺憾至極に存じ候。然れども貴下の行動は恐らく本心より出でたるものにあらざるべしと思慮致候に付来る七日迄に復職願い出でられたる場合においては、当局々員として適当と認めたる時は実施案の本旨に鑑み特に今回にかぎり右処分を取消すことも有之べく念のため申添候。
[#ここで字下げ終わり]
「何だか意味深重な手紙だねえ」
弟がそう云っている。
「どういうのよ、これ。ね、お兄さん。それまでにストライキをやめろってことなのかしら?」
新聞は、今度の総罷業は「双方見事な統制で応戦」と報じているが、私は市中へ出て見てまた、こうして、新聞を見て奇異な感にうたれるのであった。成程、車庫は白服でつまってそのまわりはなめたように閑静だし、罷業団は職場以外のそれぞれのところに塊まって気勢をあげている。その状態を、見事な双方の統制というのかもしれぬけれど、どの電車の内、停留場にでも貼られているのは、電気局の儀式ばった印刷のビラだけで、従業員たちが直接市民に訴えるただ一枚のビラ、伝単さえ見当らないのはどういうものであろう。そしてまた、従業員の生活問題のために起った東交が、やはり一枚のビラをもまかず、市民に向って特別なアッピールをもしないでいるというのは何故であろうか。そう思って、「争議団司令部」という大きなはり紙をした二階の手摺のところへ、新聞社写真班のために、わざわざ並んだ幹部たちの写真を眺めいるのであった。
[#地付き]〔一九三四年十月〕
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
1953(昭和28)年1月発行
初出:「進歩」
1934(昭和9)年10月号
※×傍点を付した文字は、底本の親
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