ったとき、これも臨時ではあるが、遙に馴れている運転手が、
「左! 左を見て!」
とハンドルを握ったまま力をいれて早口に注意したが、俄車掌がやっとステップに出た時、とうにバスはその危険なところを横切ってしまっている。――
神田に向う電車通りに出ると、空円タクがふだんの倍ほど通っているきり、平穏である。むこうから一台、ワイシャツの前にネクタイをたらし、カンカン帽の運転手に運転された電車が来た。
私の乗っているバスの俄車掌は、停留所が近くなると、長い体を折って一々前方をすかして見ては、
「次は××町でございます。お降りの方はございませんか」
と呼んだ。そして、降りる者があると、その一人一人の後から、
「ありがとうございます」
と云うのである。その夏服の肩や襟のあたりはいい加減やけている。きょう一日のスキャッブ代金四円をこの男は夜になってどんな感情で数えるであろうかと思った。
昭和七年の争議では強制調停によってクビになった連中が、今日、あの当時からみると三円もやすくスキャッブに呼び出されている。それらの人々はどんな心持で乗車しているだろう。千何百名とかに、電気局は召集の電報を打ったそうだが、その人をばかにした呼び出しを突っぱねることの出来た者は、果して何割あったろうか。私は、シャツ一枚の運転手や長い脛を力一杯踏ばっても猶よろよろしながら片手で大切そうに鞄を押える俄車掌の姿を、憐憫と憤怒のまじりあった感情で見つめるのであった。
私のその視線が、揺れながら進行するバスの中で一つのものに止った。ステップに近いところに、客から受取った切符をいれるためのニッケル色の小判型の箱がついている。そこに、くっきりした字で285大浦と書いた紙がはりつけられている。きのうまで、この車には大浦何とかいう婦人車掌が乗組み、たとえばさっきのような角へ来た時は敏捷な動作で手を出しながら「左オーライ!」と呼んでいたのだ。自分の車をすて、自分の名の書いてあるニッケル色の光った箱をすて、彼女は仲間と一緒に合宿へ籠城している。紺のスカートを勢よくひろげて車座に坐り、熱心に報告をきいたり、歌をうたったり、またはほころびを縫ったりしている婦人車掌たちの様子が、私にはまざまざと見える。今度の整理案ではバスの婦人車掌、月収四十八円のところを、三十八円に減らされることになっているのである。
この頃では、バスの車掌もひところのように赤ん坊が生れたからと云って退くひとがなくなって来た。堂々子供をつれて職場にねばるようになって来た。
××終点の引かえし線の安全地帯に立っていたら、すぐうしろで、
「ストライキ見に来たよ」
と太い男の声がした。ふりかえって見ると、銀モールの太い紐をかけた潰し島田に白博多の帯をしめた浴衣姿の芸者がいて、男はその芸者屋の主人という風体である。絞りの筒っぽで、縮緬の兵児帯を尻の先にグルグル巻きにしている。
「ストライキをやってるってえから……電車動いてるじゃないか」
その芸者は黙って、安全地帯の上から珍しそうに通って行くバスの中をのぞき込み「お父さん」何とかと、云っている。
「車庫へ行って見よう」
やがて五十がらみの男はそう云って歩き出したが、芸者はそれについて二三歩あるいたきり、安全地帯からはなれず、頻りに四辺を見まわしている。
終点のまわりには、何ということなし、街の様子を見物に出ている子供づれの女や男が、安全地帯のところではなく、洋服屋の既成品のぶら下ったしたあたりに佇んでこっちを見ている。
六時すこしまわった刻限で、その場末の終点の光景は一種特別であった。市内から終点に向って来る電車はどれも満員で、陸続と下りる群集が、すぐ傍の省線駅や歩道の各方面にちらばるが、その電車が終点からベルを合図に市内に向けて出発する時はどれにも、ちらほらとしか乗客がのっていない。
一台ポールの向きをかえるごとに、安全地帯の上をコツ、コツ、歩いている赧ら顔に新しいカンカン帽をかぶり、縞ズボンに白い襟がついた黒チョッキ、黒上衣といういでたちのずんぐりした四十男が、
「××橋行きでございます。××橋行きの方はおのり下さい」
または、
「どこだい?」
と、横柄な親しさで背広服の急造運転手に声をかけ、
「×橋行か」
声の調子を改めて、
「×橋行きでございます。――××方面のお方はおのり下さい」
一こと一ことをはっきりと呼んで、またコツ、コツ安全地帯をこっちへやって来る。
私がここへ来たばかりの時、その妙にきわだった服装の私服めいた男は、白粉やけのした年増女と、声高にこう喋っていた。
「あんまり見ちゃいられねえから、手伝ってやるのよ。――あっちこっちから役人をひっぱり出して来ているんだから、まるきし何も分りゃしねえ」
そう云って、その横にいる私の方を聞いたか
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング