。明治のはじめ、官員の若様が金をもって熱海へ来たのであったから、とりまきがついてお酌をあてがった。それがはじまりでこの人の一生は惨憺たるものとなった。祖母は、不良少年のようにしてしまった発端における自分の責任は理解出来ないたちの人であったから、やくざになった一彰さんばかりを家名ということで攻めたてた。親族会議だとか廃嫡だとか大騒ぎをした。そして、そのごたごたの間に母の実家は潰れた形になった。妹である母は、高島田に紫と白のあけぼの染めの絹房の垂れたかんざしをさした頭を下げて、兄の借金の云いわけをしたのであった。
 従って謙吉さんのつよく大きい人柄は誇張されて一家のものから評価され、たよられていたと思われる。そういう実家のごたごたの度に、母は、謙吉さんがいてくれさえしたら、と涙をこぼした。気がちがった謙吉さんのいる家は、それからのち、田端の汽車を見にゆくたびに思い出された。こわさと珍しさ、妙になつかしさの入り交った気もちで左手の崖の方を見上げた。もとよりそうして見上げたからといって、屋根の棟ひとつ目に入るわけでなかったのだけれども。――
 崖が右手に聳えはじめているが、しかし左手はまだ平らで、大根畑などがあるあたりに、更にその奥へ通じる一本の草道があった。そこに一軒のしるこ屋があった。どういう商売の目算で、人家まばらな桜の木の梢に冬の日をうけながら、しること柔かい字で書いた旗が出されたのだったろう。
 どこか心をさそうその風情にうごかされたと見えて、めずらしく通りがかりの母が私たちをつれてそこでおしるこをたべたことがあった。甘くて美味しかった。水色の、角のそげた小さい衝立が立っていた。しかしそこで御馳走になったのは一遍きりで、いつの間にか時がすぎ、あとで思い出したときその店はもう無くなっていた。
 茶料理で有名であり、河童忌や大観の落書きで知られた天然自笑軒が出来たのは、大正のことで、女中が提灯を下げて送って出るその門は、同じ田端でもずっと渡辺町よりにあった。
 漱石は、本郷の千駄木町に住んでいたので初期の作品にはどれもよく団子坂から上野、田端あたりの情景が出て来る。「吾輩は猫である」の中にがらくた中学として有名だった郁文館の中学生のボール悪戯が描かれているのを知らぬものはない。「三四郎」には、明治四十年代の団子坂名物であった菊人形のこともあるし、田端と本郷台との間の田圃のあたりも描かれている。
 後年渡辺治衛門というあかじや銀行のもち主がそこを買いしめて、情趣もない渡辺町という名をつけ、分譲地にしたあたり一帯は道灌山つづきで、大きい斜面に雑木林があり、トロッコがころがったりしている原っぱは広大な佐竹ケ原であった。原っぱをめぐって、僅かの家並があり、その後はすぐ武蔵野の榛の木が影を映す細い川になっていた。その川をわたる本郷台までの間が一面の田圃と畑で、春にはそこに若草も生え、れんげ草も咲いた。漱石の三四郎が、きょうの読者の感覚でみればかなり気障でたまらない美禰子という美しい人に、当時の文展がえりを散歩に誘われ、この辺の田端田圃のどこかの草原に休んで、美禰子が夕映を眺めながら謎のように|迷える羊《ストレイ・シープ》というひとりごとをくりかえすのをきいた。
 同じその四十年代の明治に子供であった私達は、同じその田端田圃の畦道を、三四郎がとこうとして悩んだ悩みもなく、「きいてき一声、新橋を、はやわが汽車ははなれたり」と声はりあげて歌いながら歩いた。余りながく崖の上で汽車を見ていて、この田圃にかかる頃は、もうあたりにいくらか夕靄がこめ、町々に豆腐屋のラッパがきこえはじめる時刻になることもある。子供らは先頭にわたし、しんがりにおとな、という順序で、急な母恋しさに畦道をいそいだ。行手には雑木山があった。子供には、すごく深くおそろしく思ったその雑木山の裾を左へとって、暗いしめっぽい樹の匂いのする急な坂をのぼりきると、松平さんの空地と呼ばれていた広地のからたち垣が見えた。そのからたち垣は、ほんとうに長くて、それについて又左へうねって行くと、大給という華族の黒い大きい門があり、自然に折れて丸善のインク工場の前を通った。そこも右手はまだ松平の空地つづきで、せまい道幅いっぱいによく荷馬車がとまっていた。私たち子供は一列になって息をころして馬のわきをすりぬけ、すりぬけるや否や駈け出し、やがてとまってあとをふりかえってみた。こわいくせに、そのこわくて大きな馬の後脚の間に、ホカホカ湯気の立つ丸い馬糞が落ちていたのは、まざまざと見て覚えるのであった。
 からたちの垣は、表の大通りにある門のところまでつづいて、松平さんの桜といえば、その時分林町のその往来に美しく立派なお花見をさせた。からたちの垣がくずれているところから草の茂った廃園が見え、奥の方に丘があってその
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