動坂は、こまかい店のびっしりとつまったひろい石じき道の坂であった。
その、もう一つ前の動坂は、私たち本郷辺の子供らになじみのふかい動坂で、坂の幅はもっともっとせまく、舗装もしてない急な坂だった。動坂を下りて、ずっとゆくと、二股になった道があって、そこに赤い紙をどっさり貼りつけられた古い地蔵さんの立っている辻堂があった。田端の駅へゆくときは、その地蔵のところから左へとって、杉林などが見えるところから又右へ入って、どうにかしてゆくと、忘れられない急な切どおしの坂があった。右側が崖で左は平らで梅が咲いたりしている大根畑だった。その崖についてゆくと赭土の高い切りどおしで、子供の身たけでは大変高く感じられた崖が左右にあった。その赭土の崖はいつもぬれている、羊歯、苔、りんどうの花などが咲いた。笹もあった。冬は、その赭土のところに霜柱が立ち、その辺の道は、いてついたままのところやどろんこのところや、ひどい難儀をした。汽車を見に、弁当もちで出かける八つばかりの私と六つ、四つの弟たちは、よくこの難所で小さい靴を霜どけのぬかるみに吸いとられて泣いた。靴がぬげたア、と泣くのであった。すると、ついている大人がかかえ上げて片手に靴をもって、ひどいところを大股にこして乾いたところへおろした。私は姉だから厳粛に自力で困難を征服する。
そうして切どおしをのぼり切ると、道灌山つづきの高台の突端に出た。子供の時分の田端の駅は、思えば面白い地形に在ったものだ。
汽車は、平らに低いところを走っている。だから駅も低いところに在らねばならない。そういうわけで、田端の駅は、その高台からまるで燈台の螺旋階段のように急な三折ほどの坂道で、ダダダダと駈けおりたところに在った。その急な小径の崖も赭土で、ここは笹ばかりが茂っていた。穴蔵の中に下りてゆくように夏その坂道は涼しかった。そして、冬は、その坂をのぼり切って明るい高台道の日向に出たとき、急にはっきり陽のぬくみを顔に感じた。
私たち子供達が田端の汽車見物をしたのは、その坂を下りず、草道を右にきれた崖上であった。ころがり落ちないような柵のあるところで、一人の女の子とそれより小さい二人の男の子とは、永い永い間、目の下に活動する汽車の様子に見とれた。汽罐車だけが、シュッ、シュッと逆行していると、そのわきを脚絆をつけ、帽子をかぶった人が手に青旗を振り振りかけている。貨車ばかり黙って並んでいるところへガシャンといって汽罐車がつくと、その反動が頭の方から尻尾の方までガシャン、ガシャンとつたわってゆく面白さ。白い煙、黒い煙。シグナル。供水作業。実に面白くて帰りたくなるときがなかった。
その間に、ついて来ていた大人は何をしていたのだったろう。誰がついて来たかは覚えていないが、やがて弁当をひらいて、小さい握飯をたべた。
それは正午と限ったことはない。とにかく「汽車を見にゆく」ときにはきっとお弁当がいり、それは、田端で汽車を見ながら食べられなければならなかった。
弁当箱そのものが、子供らには重大な関心をもたれていた。何しろそれはイギリスから父が送ってくれた大小三つの赤トランクであったから。金属製で外側はイギリス好みの濃い赤でぬられているところへ、茶色エナメルでがんじょうな〆皮と金ピカの留金とがついている。それはただ平ったい上に描かれているのではなかった。ちゃんとさわってみると〆皮のところは〆皮のように、留金のところはそのように、高くうち出されている。それが堂々たる茶色と金で光っている。
父が外遊中、家計はひどくつましくて、私たちのおやつは、池の端の何とかいう店の軽焼や、小さい円形ビスケット二十個。或はおにぎりで、上野の動物園にゆくとき、いつもその前のおひるはお握りだった。母はずっとあとになってからでも、小さい子供たちのために動物園に行くときは、さあおむすびをたべて、とこしらえたものであった。
赤トランクは年の順に大中小とあって、おむすびもいくらか大中小に結んであったのかもしれない。
その切どおしの崖上に白梅園というところがあったり、その附近に芥川龍之介氏の住居のあることなどが話題になったのは、ずっとずっとあとのことである。
切どおしの崖の上に一軒の家があって、私が母につれられて行ったことがあった。そこは謙吉さんという母の兄の家であった。謙吉さんという人は若くてアメリカへゆき、財産をこしらえて帰ったが、その頃は発狂して、養生していた。おとなしい気違いで、障子に指をつっこんで穴をこしらえ、一日じゅうそこから外を見て暮している、という話が子供心に印象された。この謙吉さんという人は、母の次兄であった。長男の一彰さんという人は、予備校のどこかへ通っている十六の年、脚気になった。溺愛していた祖母、母の母が、金をもたせて熱海へ湯治にやった
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