貨車ばかり黙って並んでいるところへガシャンといって汽罐車がつくと、その反動が頭の方から尻尾の方までガシャン、ガシャンとつたわってゆく面白さ。白い煙、黒い煙。シグナル。供水作業。実に面白くて帰りたくなるときがなかった。
その間に、ついて来ていた大人は何をしていたのだったろう。誰がついて来たかは覚えていないが、やがて弁当をひらいて、小さい握飯をたべた。
それは正午と限ったことはない。とにかく「汽車を見にゆく」ときにはきっとお弁当がいり、それは、田端で汽車を見ながら食べられなければならなかった。
弁当箱そのものが、子供らには重大な関心をもたれていた。何しろそれはイギリスから父が送ってくれた大小三つの赤トランクであったから。金属製で外側はイギリス好みの濃い赤でぬられているところへ、茶色エナメルでがんじょうな〆皮と金ピカの留金とがついている。それはただ平ったい上に描かれているのではなかった。ちゃんとさわってみると〆皮のところは〆皮のように、留金のところはそのように、高くうち出されている。それが堂々たる茶色と金で光っている。
父が外遊中、家計はひどくつましくて、私たちのおやつは、池の端の何とかいう店の軽焼や、小さい円形ビスケット二十個。或はおにぎりで、上野の動物園にゆくとき、いつもその前のおひるはお握りだった。母はずっとあとになってからでも、小さい子供たちのために動物園に行くときは、さあおむすびをたべて、とこしらえたものであった。
赤トランクは年の順に大中小とあって、おむすびもいくらか大中小に結んであったのかもしれない。
その切どおしの崖上に白梅園というところがあったり、その附近に芥川龍之介氏の住居のあることなどが話題になったのは、ずっとずっとあとのことである。
切どおしの崖の上に一軒の家があって、私が母につれられて行ったことがあった。そこは謙吉さんという母の兄の家であった。謙吉さんという人は若くてアメリカへゆき、財産をこしらえて帰ったが、その頃は発狂して、養生していた。おとなしい気違いで、障子に指をつっこんで穴をこしらえ、一日じゅうそこから外を見て暮している、という話が子供心に印象された。この謙吉さんという人は、母の次兄であった。長男の一彰さんという人は、予備校のどこかへ通っている十六の年、脚気になった。溺愛していた祖母、母の母が、金をもたせて熱海へ湯治にやった
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